ブログの最初の記事として、自分の音楽のルーツを書くべきだと考えました。おそらく長い話になりますが、お付き合い下さいませ。
まずは身体的要素から。アレルギー体質で、幼児期から鼻炎と喘息がひどかったのですが、咽喉頭を含む気道の形状や肺活量の増加という身体的要素に繋がっているように思います。肺活量は高校一年生の時に5,000ccあり、喘息発作で代償的に胸腔が大きくなったのでしょう。気道の形状は、自分で観察できないので何とも言えませんが、現在もかなりの高音(D音)が発声できるのは、それも関係しているかも知れないと、ボーカル教室の歌川和彦先生(サムガイズ・ミュージック https://someguysmusic.com/)に指摘されました。
一方、社会的要素です。幼児期は完全に虚弱体質であり、幼稚園や学校も年に何十日も休む状況で、ピアノなどが習える状況ではありませんでした。母が小学校の音楽教師(ただし教育学部卒)でしたが、本格的に教えてもらった事はなく、家にあった電子オルガンを自己流で弾いていただけです。義務教育以外で正式に音楽を習っていないのが、現在まで続く音楽分野の劣等感に繋がっています。
学校を休みがちなので、運動神経が発達する筈もなく、歌を歌う機会も少なく、小学校低学年の頃は鼻歌以上のパフォーマンスの記憶はありません(笑)。田舎のためテレビも民放1局のみで、音楽のインプットはNHKのど自慢とアニソン(特撮含む)限定でした。叔父がアニメや特撮のソノシート(レコード盤)を兄と僕に買ってきてくれて、主にはそれを聴いていました。
小学校3年生頃、やっと人並みに登校できるようになり、学校生活でも積極性が出てきた記憶があります。音楽関係では、年次の音楽会で打楽器(小太鼓)を好んで演奏しました。母の勧めで「作曲コンクール」なるものに応募し、8小節程度のものを授業の音楽知識の範囲で作っていました。母推薦で学校代表になり、何かの賞はいただいていたと記憶しています。一方、学校の授業で詩を作る事を学び、まずまず頑張っていたようです。「とび箱がとべた」という詩が地方の新聞に掲載された記憶があります(注:3年生まで全然とべませんでした)。
小学校4年生頃から、歌でしっかり発声するとボーイソプラノになる事を発見し、音楽の時間に目立ち始め、人前で歌わされる機会が増えました。小学校5年生頃から喘息発作が出なくなり、体力もついてきました(運動神経は相変わらずですが)。小学校6年生の時に、近所の婦人会の推薦で、町のチャリティーショー「ちびっ子のど自慢」に出演しました。写真はその時のものです。まだ歌謡曲を知らず、母の勧めのままにペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」を歌いました。

写真からわかると思いますが、極度に顎を上げて歌う癖がありました。医師として推察するには、当時は極度の扁桃肥大があったため、気道を開くためにこの角度が必要だったのだと思います。また、この方が高音も出やすかったと記憶しています。一方、鼻炎は続いていて滑舌も悪く、100%胸式呼吸で肺活量任せに歌っていたと思います。これらの癖を直すのに数十年の歳月を要しました。
当時の周囲の音楽世界は、高校1年生だった兄が「甲斐バンド」を聴き始め、歌謡曲が音楽としてインプットされるようになりました。静かな音楽が好きな僕のために、兄は「さだまさし」の歌をカセットテープに録音してくれました。1979年末のNHKホールでのコンサートだったと記憶していますが、何十回も聴いて、さださん特有のMCを一言一句記憶していた事を覚えています。メンバー紹介の「ギター、坂元昭二!」という声まで覚えていますが、まさかその後自分が坂元昭二先生に師事し、CDを出すなんて夢にも思いませんでした(当然、当時はCDなんかなかったですしね:笑)。
この頃、やはり母の勧めで初めてギターを手にする事になるのですが、その話は中学校編に譲る事にします。
長文、読んでいただきまして、ありがとうございました。