高2の1学期(後半)
修学旅行を終えると、中間考査やら実力テストやら、夏休みまでは勉学集中の時期になる筈なのですが、いまだに失恋の痛手を引きずっていた僕は、厭世観にさいなまれる日々を送っていたように思います。成績はクラスど真ん中からやや数名後退した感じでしたが、興味を失った数学が危機に陥っていました。それでも、必ず巻き返せる、と信じていたのは、若さゆえの自信過剰なのでしょう。
この頃の思い出は、七夕の笹飾りで、当時、各クラスの有志が笹を持ち寄ってベランダに掲げ、皆で短冊などを飾ります。ちょうど下宿の近くに笹を売っていたので、僕が持って行って、放課後に友人達と吉野川に流したことを記憶しています。ちょうどこの年は、ロサンゼルスオリンピックの年だったこともあり、このようなお願いをしていました。とても微笑ましいですね(自嘲)。

図書館の他にも色々と居場所探しをしていたようで、友人の佐々木雅浩君と一緒に「フォークサークル同好会」に入部して、週1回のミーティング兼練習に参加していました。クラスメートのS野君は1年生の時から入部していたようですが基本的に幽霊部員でした。当時の女性部長から引き継いで部長となり、市高祭でのライブハウス復活を目指していたところ、1年生も数名入部し、長渕剛ファンの同級生達も時々遊びに来て、活況となっていきました。
一方、佐々木雅浩君は当時休部だった「ジャーナル同好会」を復活させ、7月20日には「市高通信」を完成させていました。彼もまた自分の居場所と存在意義を模索していたのだろうと思います。

生徒会は二期制で、前期選挙に自発的な立候補者が存在せず、全クラスの委員長級で構成される協議委員会の中から秀才の呼び声の高い委員長と副委員長(クラスメート)が立ち、信任投票で生徒会長と副会長が決定しました。僕は、書記から会計へ役職変更となりました。この執行部の元、6月下旬に第22回市高祭の実行委員会が組織され、経緯はよく覚えていませんが、僕が文化祭実行委員長に任命されてしまいました。事の重大さをよく理解しないままに、お祭り騒ぎに没頭していったように思います。
文化祭では飲食を含めたバザールがあり通常は3年生が独占するところ、(別に僕が権力を行使した訳ではないのですが)僕らのクラスが1枠取り、ホットケーキ屋さんをやる事になりました。そういえば、文化祭実行委員長の仕事として、学校代表で徳島市の保健所に行って指導を受け、バザール実施の許可をもらってきた記憶があります。
この時点から、市高祭実行委員会の1メンバー、文化祭実行委員長、クラスのバザールおよび大旗小旗の準備、フォークサークル同好会のライブハウス準備、フォーク&ロックのオーディション受審の準備、と並行して進めていく事になりました。まったく、膨大な業務をどうやって裁いていたのか、まったく覚えていませんが、自分としては失恋を引きずっている現状を忘れるべく、心と頭の隙間を埋めていたのでしょう。
そしてまたまた1日8時間の自主学習を是とする夏休みに突入するわけです。信じがたい事ですが、この多忙な夏休みの間に、僕の音楽ルーツとして語るべき貴重な体験をいくつか経ていくことになります。それはまた次回のお楽しみに。
今日も読んで下さって、ありがとうございました。