歴史 ~不都合な真実~
1983年(高校1年生)当時は、友人の佐々木雅浩君の詩に曲を付けることがほとんどでした。
「音楽ルーツの考察(6)高校編 その3」でも紹介した「歴史」という曲は、Mackyのアルバムに収録された楽曲中で最古の「歴史」を誇る曲になります。2ndアルバム「ひとあるき」に収録されています。

試聴はこちら(SoundCloud)へ
https://soundcloud.com/user-634662970/06-macky-rekishi-demo
歴史 ~不都合な真実~
1983年(高校1年生)当時は、友人の佐々木雅浩君の詩に曲を付けることがほとんどでした。
「音楽ルーツの考察(6)高校編 その3」でも紹介した「歴史」という曲は、Mackyのアルバムに収録された楽曲中で最古の「歴史」を誇る曲になります。2ndアルバム「ひとあるき」に収録されています。
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高1の3学期
下宿のあった地域には、徳島大学常三島(じょうさんじま)キャンパス、徳島大学教育学部附属小学校・中学校(当時)、徳島中学校、助任(すけとう)小学校などがあり、学術的な雰囲気がありました。その地域から真東に海へ向かって3kmまっすぐ進むと、最後に沖洲川の橋を渡って市高へ到着します。冬になると、自転車通学者には厳しい海風となりますが、約15分の道のりを毎日自転車で通っていました。
僕とCさんは、沖洲川の少し手前にある交差点、エミールという本屋さんの前で待ち合わせて一緒に通学していましたが、Cさんが遅れてくることが多くなり、立ち往生しているところをみんなに目撃されるという毎日が続くようになりました。そのうち、時にすっぽかしを食らう朝も出てきました。それでも、放課後は一緒に帰るわけですが・・・。
十代の頃はあるあるだと思いますが、異性と何を話題にして話せばいいか、さすがのMackyもわかりませんでした。自転車で並んで走っていても、ほとんど口をきかずにCさんの住む地域の近くでお別れするような毎日になっていました。僕はそれでもうれしいと思っていたのですが、Cさんはそうではなかったようで・・・。
3学期、3年生は受験シーズンで忙しいのですが、2月上旬に毎年恒例の映画館での予餞会(映画鑑賞会)が開催されていました。この年は「戦場のメリークリスマス」、映画にあまり興味がない僕は、坂本龍一の音楽と北野武の出演しか認識していないのですが、生徒受けは良かったと思います。生徒会の仕事の一環で、僕は自転車置場の整理を仰せつかり、最初の1時間くらい、自転車をきれいに並べる作業をしました。その後、映画を観に行ったのですが、野営で焚火に照らされた北野武の顔を一瞬見ただけで、あとは待合室で実力テスト対策で百人一首を覚えたり、生徒会活動をしている上級生達と世間話をしたりしていました。
それから数日後、当時はとってもトキめいた2月14日、バレンタインデーを迎えます。それまでも、いわゆる義理チョコはもらっていましたが、その時は一応、自他共に認める交際相手がいた訳ですから、当然、大きな期待をもっていました(笑)。その日の朝の事は覚えていないのですが、その日の夕方、いつものようにCさんと一緒に帰っていて・・・珍しくCさんが話しかけるので、何かと思ったら、一緒の登下校をやめたい、と。
こういうの、天国から地獄へ突き落とされる、っていうんだと、生まれて初めて思いました。話した内容は覚えていませんが、つまり僕は「フラれた」とのだと認識しました。
しばらくは勉強も手につかず、ギターを弾いても悲しい曲ばかり、という状況で、本屋で「青春哀歌」と名の付いた日記帳を買ってきて、鬱々とした気持ちを吐き出していました。当時のCさんへの思いが綴られたその一冊の日記帳は、長年手元にありましたが、15年後の海外留学を機に捨てたと記憶しています。この写真には、その「青春哀歌」と写真立てに入れたCさんの写真の一部が写っています。
日記帳には散文を書いていましたが、もちろん、詩作も並行していて、詩についてはノートの切れ端やルーズリーフに走り書きしていました。それまでは、親友の佐々木雅浩君が作った詩に勝手に作曲する事が多かったのですが、その頃から、自分で曲を付けるための作詞を試みるようになりました。そう考えると、この失恋が作詞家Mackyの誕生につながったのかなと思います。
そんなこんなで、真面目な勉強時間はめっきり減ったにもかかわらず、それなりに成績をキープしており、失恋を心配(?)していた担任も安心しておられたようです。しかし、心の傷は深かったようで、教室以外の居場所を求め、休み時間は図書室などに逃げ込むようになっていました。
また、生徒会活動なども気持ちをそらすのには良かったようで、毎年3月下旬にあるオーケストラ部の定期演奏会でも会場整備係などを仰せつかりました。演奏中に舞台に近いドアを開けないようにお客を誘導する係でしたが、演奏会の間中、何時間も暗いドアの外に立っていました。他クラスの女子グループに「ねぇ、そんなところに立ってないで、どっか(夜の街へ)遊びに行こうよ」と強く誘われて、内心はちょっとうれしかったのに「生徒会の仕事だから」とお断りしたのをはっきりと覚えています。真面目だったんだか、失恋を引きずっていたんだか、今となっては思い出せません。
そうして昭和58年度(1983年度)が終わり、季節は春に向かっていきます。読んで下さって、ありがとうございました。
高1の2学期(後半)
満開の桜も散り始め・・・の頃に、秋が深まる話になって恐縮です。高1の2学期というのは、本当に色々なことがあったように思います。話が前後していくかも知れませんが、ご容赦下さい。
市高祭が終わり、再び学業に没頭しなければならない時期なのですが、その反面、学校行事の色々な事に首を突っ込んでいたように思います。例えば、この写真は、明らかに市高祭の反省会で、服装からも9月頃と予想されます。司会をしているのは当時の生徒会長で、写真の左側、席の後方で両腕をカバンに載せて偉そうに聞いているのが僕なのは間違いありません。当時、既に生徒会の活動にも参加していたようです。
その後、秋に生徒会選挙があって、選挙には出ませんでしたが、新執行部で書記を拝命し、色々な活動に参加していく事になります。校誌「葦芽(あしかび)」の生徒総会の記事を一番下に転載しますが、その年12月の生徒総会でも書記を担当していた事が確認できます。小さい字ですが議事録が読み取れます。自由な校風で有名な高校でしたが、ここまで生徒自治が発達していたとは、今更ながら驚きです。
ここでこれから語る「事件」における、女性の登場人物を整理します(笑)。まずは、前回(高校編8)の記事で登場したAさん、僕に好意を持ってくれているという他クラスの美人さんです。そして、前々回(高校編7)の記事で登場(お寺のセミナーの肝試しでご一緒)したクラスメートのCさん、それから、その二人と仲良しのクラスメートのBさんがキーパーソンになります。
僕とBさんを含む何名かのクラスメートは、朝登校するのが早く、始業前30分くらいには教室にいて勉強しているのが常でした。10月のある朝、Bさんにベランダに呼び出され、以下のようなお話をされました。
「CさんがMackyくんとお付き合いをしたいと言っている。Aさんの事は私達も知っているから、決めるのはMakcyくんだけど、もしOKだったらCさんに話してあげて。」(注:当時はMacky君というあだ名ではありません)
こういう場合、クラスメートであることと、話をしたことがある、というのが強みだと思いましたね。あまり迷うことなく、お付き合いする旨、Cさんに伝えました。お付き合いする、と言っても、基本的に登下校を一緒にするだけ、でした。一度だけのデートは、今は閉店してしまった「徳島そごう」。マフラーを編んでくれるとのことで、二人で毛糸を選び、1階のロッテリアでお茶をしました。選んだ毛糸の色は白、予想よりとても早く仕上がってきたのを覚えています。
そのデートの日は、壊れていたカメラが直っていたので、Cさんの写真も少しだけ撮影しました(今はもう残っていませんが)。同時期に撮影した風景を2つほど載せておきます。場所は、徳島城趾の周りにある徳島公園で、この辺りを通って下宿から駅へ移動していました。デートの帰りもこんな風景を見ながら帰った記憶がありますし、ひょっとしたら、本当にその帰りに撮影した写真かも知れません。
2学期の間は、Cさんと一緒に登下校をすることだけで、うれしかったのを覚えています。そのうち、全校に知れ渡ることになり、Aさんが冗談っぽくCさんとBさんを責めているような光景にも出くわしましたが、仕方ないなとスルーしていました。Cさんは朝が遅く、しばしば待ち合わせ場所で立ち往生していましたが、その時間も含め、大切な時間だったと思います。
女子の家庭科の授業でケーキを焼くので食べて欲しいと言われ、楽しみに待っていたら、置いていたケーキに誰かが座ってしまい、食べられなかったこととか、クリスマス・プレゼントとして、電子オルゴールを組み込んだ木箱を作って、フタの裏側に「Merry Christmas」と彫るつもりで「Marry Christmas」と彫ってしまったこと、など、何かうまくかみ合っていなかったのかも知れませんが、良い思い出です。ちなみに、Cさんはクラスでも英語はトップだったので、スペルミスは、今思い出しても赤面しそうです。
寒さが厳しくなっても、心は温かく、高1の2学期は過ぎていきました。生徒会活動もあったと思うのですが、成績もクラスの真ん中辺りで安定していました。ただ、この頃から、ずっと自慢だった視力が悪くなり始めます。冬休みは里帰りをして、平和に過ごしていたつもりでしたが、今になって思えば、休み中にデートの約束とか、していれば良かったのかも、と思わないではありません。
そうして昭和58年(1983年)が過ぎていきました。今日も読んで下さって、ありがとうございました。
高1の2学期(前半)
しばらくご無沙汰しました。どの業種でもそうですが、年度の替わり目は忙しいものですね。
2学期の事を書き始めようと思ったのですが、少し遡った話をしておく必要があります。1学期の期末テストが終わると、夏休み前の短縮授業+補習が数日続き、終業式前の2日間くらい球技大会になると思います。当時、競技としては、ソフトボールと卓球が相場だったように記憶しており、僕も活躍はしないまでも出場していたように思います。その当時は、我が理数科も体力が有り余っていて、学年優勝を含めいいセンを行っていたと記憶しています。
夏に向かって浮き足立つそのような季節に、さらに浮いた噂が飛んできました。他クラスのある女子(仮にAさんとしておきます)が、僕に好意を持ってくれていると・・・。それが「え?」っていうくらいに可愛い女子だったので、僕もまんざらな気持ちではなかったのですが、すれ違って会釈をする程度で何も進展する事なく時間が過ぎていました。クラスの友人達はとても面白がって、球技大会の合間に僕を担ぎ上げて、Aさんのいるところへ運んで行ったりするのですが、恥ずかしくて走って逃げ帰ることしかできず・・・今となっては良い思い出です。
そして、夏休み、市高祭の準備、と進み、2学期が始まり、あっという間に市高祭になりました。前夜祭は体育館での「フォーク・ロック」が目玉で、B君の長渕剛で幕を開けました。2日目の文化祭は、模擬店、文化系クラブの展示、体育館での舞台(ロック、新体操など含む)、他校の生徒にもオープンで、たくさんの人々で賑わいました。
1年生でクラブ所属もなかった僕は、ひたすら写真を撮ったりしていたのですが、後日フィルムを現像に出した際に何も写っておらず、カメラシャッターが壊れていた事が判明して、がっかりしました。そのため、この頃は自分で撮影した写真が何も残っていないのです。仕方がないので、校誌「葦芽(あしかび)」から拝借しました。
3日目の体育祭では「スター・ウォーズ ジェダイの帰還」の大旗の前に陣取り、チャゲ&飛鳥の小旗を持って入場行進をしました。競技は採点されますが、当時の記録によると、入場行進が11クラス中1位、応援合戦(学ランを着ての正統派)が11クラス中2位となっており、クラスの団結の強さを示していました。僕は1500メートルでクラス代表だったのですが、当日、あまりに気合いを入れすぎて、朝5時起きでアップなどしていたものですから、本番で失速して11人中8位に終わってしまいました。そのせいではないのですが、総合成績も11クラス中7位に沈んでしまったと記憶しています。
とにかく真面目な高校1年生だったので、学校をさぼって遊びに行ったり、校内で羽目を外したりすることもなく、浮いた話もその後進展する事もなく、9月29日には16歳となり、2学期は平和に過ぎて行きました。10月は旺文社全国模擬試験があり、我がクラスメートが全国1位を含む上位を席巻しました(この時は、大体クラス順位x2=徳島県の順位、徳島県の順位x2=全国順位)。僕自身もまぐれで成績優秀賞をもらってしまったものですから、高校生活を通じて精神的に最も安定していた時期だったと思います。
そんな平和な生活を脅かすのは、やはり「アノ手」の事件に違いないのですが、それは次回以降にお話しします。今日も読んでいただき、ありがとうございました。