高2の1学期(前半)
過酷な高1の1年間を終え、無事に2年生に進級することになりました。
いわゆる「ヨリを戻す」可能性なんてないとわかっていながら、心の中ではCさんにこだわりつつ日記を書き続けていました。前の記事にも書いた通り、図書室カウンター内の司書室に生徒会や写真部の先輩がいらしたので、昼休みはそこへ逃げ込んでいました。司書室では飲食も黙認されていたのでお弁当を持って行きましたが、ほぼ神経性食欲不振の状態だったので、常時空腹のガタイの良い先輩に食べてもらっていました。
僕の失恋が、学校内でどこまで噂だったかはわかりませんが、自覚する以上に知られていたと思います。だから、他人に自分の恋バナをする事にもまったく抵抗がありませんでした。そのうちに、新1年生が出没するようになり、生徒会活動をしている理数科の先輩から「私の妹分」といって、Kさんを紹介されました。とても明るく外向的な性格の女性で、中学時代からの彼氏もちゃんといるとお話ししてくれました。お返しではないのですが、僕も自分の恋バナをして差し上げました(笑)。その後もほとんど毎日会うので、時々お手紙をくれるようになり、中学以来の文通を楽しむ日々が始まりました。それは当時の僕にとっては本当に救いだったと思います。
さて、市高は5月に校外行事があります。1年生は淡路島の宿泊研修、2年生は東京方面への修学旅行、3年生は眉山への遠足です。ちょうど下宿に、東京の浪人生活の後に徳島大学医学部へ進学された先輩が入ってこられたので、東京でのグループ行動(自由研修)のプランを教わったりしながら、真面目かつ入念に準備をしました。不真面目な輩は、新宿歌舞伎町とか、原宿でタケノコ族に混じって踊るとか、渋谷の109とか、色々話していましたが、僕らのグループはメンバーが超アカデミック(笑)だった事もあり、皇居を外回りで一周して、有楽町、霞ヶ関、秋葉原、本郷(東京大学)、上野公園等を訪問するプランでした。
記憶は非常に曖昧なので、例によって校誌「葦芽(あしかび)」の記録に頼ります。この号(1985年発行第23号)の編集から自分自身も関わっていて、随所に僕のイラストやレタリングが掲載されているので、それもご覧下さい。
僕らの学年は11クラスだったので、旅行は2団に分かれて、それぞれ別の旅行会社のスケジュールになりました。僕らは第2団の5月8日出発でした。第1日は徳島駅前集合で徳島港からフェリーで東神戸港へ渡り、名神・東名高速をバスで走ってトヨタ自動車工場へ訪問、竹島宿泊、第2日は白糸の滝、富士山と移動し、河口湖宿泊、第3日は中央高速を通って東京タワー、そして新設されたばかりの東京ディズニーランドへ! 第4日目は自由研修、第5日目は新幹線で新大阪まで移動して、あとは往路と同じフェリーで帰る、というプランでした。今から見直しても、ワクワクしますね(笑)!
校誌「葦芽(あしかび)」からの切り抜きですが、第1団、第2団とも、出発時のトキメキと、トヨタ自動車工場の広報戦略(?)の巧さが読み取れる記事です。太いペンで書いたバスと3人の人物は僕のイラストですね。バスガイドさんのイラストのモデルは上述のKさんです。
白糸の滝や富士山も感動しましたが、思い出としては、白糸の滝で昼食のお弁当を食べていた時、クラスメートが「あの女の子の写真を撮って欲しい」と依頼してきたので、苦労して遠くから撮影したことでしょうか。高校生あるあるの話ですが、今だとコンプライアンスギリギリかも知れません。
やはりハイライトはディズニーランドでしたね。その年にできたばかりでしたし、何もかもが「夢の世界」でした(笑)。カップルの写真も微笑ましい限りですが、Cさんとの仲が続いていれば、もっと楽しい修学旅行だったのかな、と思わざるを得ません(修学旅行のみならず、人生まったく違うものだった可能性もありますが・・・)。
そして、アトラクションの中で最も衝撃的だったのはご存知「スペース・マウンテン」です。「葦芽(あしかび)」にもコーナーが設けられた位、生徒ほぼ全員が乗ったようでした。真ん中の「SPACE☆MOUNTAIN」の文字は僕の手書きです。
その次の日の東京自由研修は、とにかく歩きました。でもあまり良い写真がなく、かつ自分の写っている写真もほとんどありません。非常にアカデミックなメンバーだったため、僕しかカメラを持っていなかったようです。唯一写っているのが下の写真で、上野公園にある野口英世先生の銅像の下に立ったのですが、なんと銅像の足しか写っていません(爆笑)。いやはや、本当にアカデミックなメンバーだったな、と。
そんなこんなで、楽しい修学旅行の思い出の断片を掘り起こすことができました。読んで下さって、ありがとうございました。