音楽ルーツの考察(19)高校編 その16

校誌「葦芽(あしかび)」編集部は、生徒会執行部、図書館の仲間達、写真部、美術部、文芸部、等の部員をかなりの重複をもって包含する大所帯です。写真、絵、文章、社会情報を必要とする活動ですから、当然ですね。

編集部の部屋は校舎(中校舎から2階渡り廊下を渡った南校舎)の一角にありました。毎日開いていて、昼休みや放課後にかかわらず、好きなときに立ち寄っていました。関係の先生方や先輩後輩を含め、色々な人生相談が飛び交う場所で、人格形成にも大きく影響しました。

フォークサークル同好会の練習が隣の視聴覚室だったので、質屋で5,000円で購入したギターを置かせてもらっていました(実は、店に入る勇気がなく、佐々木君に頼んで購入してもらったものです)。編集部の閑散期には中で弾いたりもしていました。

とても大切な場所でしたが、その後の新校舎への建て替えにより、今は帰りたくても帰れない場所になってしまいました。

編集部はこんな雰囲気でした。左の写真は以前にも出した自分の卒業式の日のものです。右の絵は1年後輩のI君がイラストにしたものです。I君は現在も大手新聞社で記者をしており、当時の経験が活きているなと感じる次第です。

徳島市立高校が2013年で50周年を迎え、創立50周年記念誌が刊行されましたが、リファレンス資料としての「葦芽(あしかび)」の存在により、非常に充実した内容になっていました。その記念誌のページですが、歴代の「葦芽(あしかび)」の表紙が並べられています。僕は、このうち23号と24号の編集に携わったわけです。

この年の冬に撮ったと思われる写真が残っていました。前年に市高を退職された先生を訪問して記事にする企画で、郷土歴史家(高校の歴史の先生は独自の研究もされていました)のM先生のご実家を訪ねた時のものです。ちょうどクリスマスで、M先生はサンタクロースに扮し、近所の子ども達も立ち寄っていました。

このようなフィールドワークの経験が、いろいろな人と関わりながらプロジェクトを進めるという、後の自分の行動規範に影響したかも知れないと思わないではありません。

少なくともこのような学校関連活動の時間の中で、男女を問わずいろいろな人とお話しし、傷ついた気持ちも少しずつ癒やされていったのだろうと、今思い返しても、ありがたい思いでいっぱいになります。

今日も読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(18)高校編 その15

高2の2学期(後半)1

市高祭が終わると、例によって、また勉強中心の生活に戻っていく・・・と先生方は期待しているのでしょうが、そこは多情多感な高校生、そうは問屋が卸してくれないと(今でも)思います(笑)。

徳島中央郵便局の近くの公園 秋という季節のほか、文章とはほとんど関係ございません。

市高祭が終わって2週間、9月29日に17歳になった僕は、相変わらずフラフラとしていたように思います。誕生日の頃は、いつもちょっと元気になるのですが・・・。

昼休みと放課後に図書館に通う生活は続いていました。フォークサークル同好会の活動も続いていました。時系列的にはこの頃に文芸部に入部し、その関係から校誌「葦芽(あしかび)」編集部にも出入りするようになったと思います。

その校誌「葦芽(あしかび)」の「Club・倶楽部・クラブ」という記事から関係していたクラブ活動の報告を抜粋します。

佐々木君の書いた「ジャーナル同好会」の記事は想定内ですが、自分が書いた「フォークサークル同好会」の記事の中に驚愕すべき事実が書かれています。何だ、この「全国高校生音楽賞・作曲部門応募」っていうのは??? どの楽曲を応募したのか、結果は選外が当たり前としても、何らか記録が残っていないか、と思い返してみても、全然思い出せません(笑)。

一方の「文芸部」は、以下のような真面目なクラブ(倶楽部の方が似合う)であり、まだ文化祭の頃には外から眺めていた記憶があります。その後、佐々木君を伴って入部し、この記事にある「砂州」という文芸誌の編纂に参加したのです。

当時、我々が唯一の男性陣だったので、しばらくの間は違和感が漂っていましたが、そのうちに打ち解けて何でも話せるような仲間になっていきました。

その中には、その後、僕にたくさんの楽曲を作らせることになるYさんもいらっしゃったのですが、その話はまたいずれゆっくりと。

今日も読んで下さって、ありがとうございました。

高校時代の楽曲 (2)

1984年(高校2年生)に初めて自分で作詞・作曲をして、人前で歌った曲です。そのひとの誕生日の翌日、市高祭前夜祭のオープニングステージの最初に歌いました。

残念ながら、公開できる音源はありません。ひょっとしたら、いつか、どこかで・・・。

17歳になった君へ贈る

17歳になった君に 
僕は何もしてあげられなかった
Birthday Cardはおろか 
おめでとう の一言さえ 言えなかった

一年前は照れくさかったから 
そうだったのだけれど
今年は違う 
もう 君に話しかけることもできない

いつの日からそうなったのか 
きっと君のあの一言から
二人の距離が 
もう 手の届かぬ長さまで・・・

ごめんよ 君に迷惑ばかり 
かけてしまったことを
今更ながら 
自分の 無力さを感じている

おそらく 歳を経るごとに 
僕と君とは遠ざかっていく
僕だって いつまでも 
馬鹿をみていたくはない

だけど 今はまだ吹っ切れない 
こんな歌を作るほどに
君をまだ 想ってる 
もう 話すこともできないのに

こんな歌 
そう 他愛ない 僕の気まぐれさ
聞かせるのも恥ずかしい 
それ以前の戯れさ

だけど もし 今 
君がこの歌を 聴いていてくれてるなら
これが 今 僕にできる 
たったひとつのプレゼントだよ

歌を歌う事でしか 
伝えることのできない
この想いを 
今 君のためだけに 伝えたい・・・

音楽ルーツの考察(17)高校編 その14

高2の2学期(前半:市高祭)

9月15日、遂に市高祭の当日となりました。以前にも紹介した通り、前夜祭、文化祭、体育祭と3日連続で行われます。僕は、前夜祭のトップバッターとしてステージに上がりました。この日のために作詞作曲した「17歳になった君へ贈る」という歌から始めて、全5曲を歌いきりました。大勢の前で複数曲を独唱するのは、これが初めての経験になりました。

記念すべきこの日のセットリスト(記憶不十分)
17歳になった君へ贈る → 君は天然色 → 黒い瞳のナタリー(スペイン語) → しあわせについて

5曲歌った筈なのですが、何故か4曲しか思い出せません。「17歳になった君へ贈る」の後半の歌詞でオリジナルだとバレて会場が騒然となった事(笑)とか、「しあわせについて」のカポを付け忘れて歌い始めてしまった事とか、細かい事はとてもよく覚えているのですが・・・。ちなみに、この日は9月15日、Cさんの誕生日が9月14日だったので、完全に確信犯でした。

そして、文化祭実行委員長として迎えた2日目の文化祭。何故かまったく写真が残っておらず、さすがに委員長の仕事が忙しかったのかな、と思い返してみても、本当に思い出せないのです。モノクロ写真は当時の地方新聞の切り抜き、カラー写真は1年後のものだと思いますが、雰囲気を感じていただけたらと思います。

以下のプログラムによれば、フォークサークル同好会(あしかびフォークサークル)として“Let’s sing our songs”というテーマでライブハウスを行ったのは確かなのですが、これも誰が何を歌ったのか、ほとんど覚えていないのです。今でいう「オープンマイク」に近い状態で、誰でも良いから歌える人を引き込んで、という何でもアリの運営だったと思います。

また、クラス(211HR)ではバザーとしてホットケーキ屋も開店していて、これも事前準備ではメニューの絵などを描いて好評を得ていたのですが、当日の当番からは外してもらっていたと思います。Cさんの事もあり、クラス活動からは距離を置きたかったという心理があるのかも知れないな、と今になって思います。

そして3日目の体育祭、大旗は「風の谷のナウシカ」でした。昨年同様、クラスメートのN君が指揮して完成させました。クラスのゼッケン「II-XI」というローマ数字が見えますが、これは僕がデザインして作った記憶があります。自分が写っている写真は少ないのですが、そうでない(自分が撮影した)写真も一枚一枚に歴史が刻まれていて、頑張っていろいろやっていたなあ、と感慨深いものがあります。

この年もクラス代表で1500メートルに出ました。一年前の失敗を繰り返さないよう、と思っていたのですが、さすがに前2日間の疲れがあったのでしょう。後半失速して7位に終わったと記憶しています。お昼の応援合戦は、マイケル・ジャクソンの「Thriller」をバックに思い思いのコスチュームで踊るスタイルでした(この写真は残っていますが、問題が多すぎて掲載できません:笑)。審査では「統一感がない」という理由で最低点数を付けられてしまったようです。

体育祭が終わった後、自然発生的かつ多発的に人の輪が出来て、俗称「ワッショイ暴動」という現象がよく起こっていました。これも市高名物なのですが、時に制御不能となるので生徒会としては問題視されていました(よって僕は参加しませんでした)。市高祭実行委員会OBとしてこの解決策を提示するのには、あと1年の歳月を要しますが、それはその時にまたお話しします。

本稿の最後に、当時の校誌「葦芽(あしかび)」に掲載された文化祭実行委員長としての作文を掲載しておきます。なんだか、ものすごい上から目線の文章で、今更ながら、スミマセン・・・。

今日も読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(16)高校編 その13

高2の夏休み

文化祭実行委員長として高校生活ハイライトの市高祭を迎える夏休み、7月中はまだ補習があって毎日登校していました。全国高校野球も池田高校からPL学園に覇権が移っており、今ひとつ盛り上がらない夏という印象でした。

7月最終日の31日、中体育館にてフォーク&ロックのオーディションが開催されました。今年は、僕と佐々木雅浩君は各々別々にオーディションを受け、おそらく1枠しかないフォーク枠を争う事になりました。本当に記憶が曖昧なのですが、僕の選曲は中学時代から進歩なく、さだまさしの「神話」でした。当時の心境から選んだ曲ですが、結果的には演奏技術も成熟していた事が幸いし、合格となりました。フォーク&ロックはフォーク先行のため、自分の演奏で前夜祭のオープニングを飾ることが決定しました。

そして8月に入り、市高祭の準備が本格化していく訳ですが、よりによってこの時期に、さらに忙しくなるような予定を入れてしまっていました。

高1の秋頃から、文化放送の旺文社大学受験ラジオ講座なるものを聴講していました。ウィークデーは朝5時から30分一コマの1時間、週末は夕方に再放送があったと記憶しています。ブラームス作曲の「大学祝典序曲」がテーマ曲でした(これは1年後の話の伏線になります)。各教科、個性も強い、色々な講師の先生が熱い講義をして下さるので、毎日とは言えないものの、頑張って聴講しました。

そのラジオ講座の講師陣を招いて、毎年夏休みに、長野県の栂池高原で「旺文社栂池サマースクール」なるものが開催されており、クラスメートの数名と一緒に参加する計画を練っていたのです。もちろん、対象は高3生ですが、高3になるとこのようなリゾート体験は気が引けるので、今のうちに行こう、というのが思惑でした。結論、他のクラスメートは最終的にキャンセル、僕だけが参加することになりました。

勉強しているところの写真はなく、リゾートっぽい写真ばかりなので、「何しに行った?」と言われるのがオチですが、ここで(今考えても)ものすごい偶然が起こります。

勉強に疲れた3日目か4日目は、午後から夜まで休講で、その夜に「コンサート」が予定されていました。誰が来て下さるのかは秘密でしたが、特設ステージに現れたのは何と「白鳥座」! ご存知、さだまさしの妹、佐田玲子さんの在籍したカルテットです。当時のメンバーは、高比良豊(ピアノ、ギター、ボーカル)、佐田玲子(ボーカル、ギター、キーボード)、阿部恵(ボーカル、キーボード)、土井晴人(ギター、ボーカル)の4名。

今では考えられない事ですが、リハーザルの合間に4人のメンバーと交流することができ、演奏直前まで草むらに座りつつ、何時間もお話しする事ができました。佐田玲子さんとの間では「お兄さんの『神話』で学園祭のオーディションに合格したんです」「えー、あんなクラい歌ー」とかいう会話も成立しました。

旺文社さんの計らいで、コンサート幕間のカラオケ大会にも出場させていただき、これまた一番手で「みちのくひとり旅」を歌いました。長野は「みちのく」ではないのですが・・・。

司会者さんとのやり取り、「手が震えていたようですが、緊張なさりました?」「いや、心を込めて歌うと手が震えるのです」「(爆笑)手を震わせながらの熱唱、白鳥座さんも見習うところが多かったのではないでしょうか?」なる言葉をいただき、子どもだった僕は、ウケた、認めてもらった、と素直に喜んでいたように記憶しています。

この他にも、グループに分かれてのハイキングや、最終日のバーベキューによる打ち上げなど、楽しい企画がいっぱいでとても満足しました。クラスメートのドタキャンにもかかわらず、長野まで行かせてくれた両親には感謝するしかありません(そういえば、この原稿を書いている今日は母の日です)。

今日も読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(15)高校編 その12

高2の1学期(後半)

修学旅行を終えると、中間考査やら実力テストやら、夏休みまでは勉学集中の時期になる筈なのですが、いまだに失恋の痛手を引きずっていた僕は、厭世観にさいなまれる日々を送っていたように思います。成績はクラスど真ん中からやや数名後退した感じでしたが、興味を失った数学が危機に陥っていました。それでも、必ず巻き返せる、と信じていたのは、若さゆえの自信過剰なのでしょう。

この頃の思い出は、七夕の笹飾りで、当時、各クラスの有志が笹を持ち寄ってベランダに掲げ、皆で短冊などを飾ります。ちょうど下宿の近くに笹を売っていたので、僕が持って行って、放課後に友人達と吉野川に流したことを記憶しています。ちょうどこの年は、ロサンゼルスオリンピックの年だったこともあり、このようなお願いをしていました。とても微笑ましいですね(自嘲)。

図書館の他にも色々と居場所探しをしていたようで、友人の佐々木雅浩君と一緒に「フォークサークル同好会」に入部して、週1回のミーティング兼練習に参加していました。クラスメートのS野君は1年生の時から入部していたようですが基本的に幽霊部員でした。当時の女性部長から引き継いで部長となり、市高祭でのライブハウス復活を目指していたところ、1年生も数名入部し、長渕剛ファンの同級生達も時々遊びに来て、活況となっていきました。

一方、佐々木雅浩君は当時休部だった「ジャーナル同好会」を復活させ、7月20日には「市高通信」を完成させていました。彼もまた自分の居場所と存在意義を模索していたのだろうと思います。

生徒会は二期制で、前期選挙に自発的な立候補者が存在せず、全クラスの委員長級で構成される協議委員会の中から秀才の呼び声の高い委員長と副委員長(クラスメート)が立ち、信任投票で生徒会長と副会長が決定しました。僕は、書記から会計へ役職変更となりました。この執行部の元、6月下旬に第22回市高祭の実行委員会が組織され、経緯はよく覚えていませんが、僕が文化祭実行委員長に任命されてしまいました。事の重大さをよく理解しないままに、お祭り騒ぎに没頭していったように思います。

文化祭では飲食を含めたバザールがあり通常は3年生が独占するところ、(別に僕が権力を行使した訳ではないのですが)僕らのクラスが1枠取り、ホットケーキ屋さんをやる事になりました。そういえば、文化祭実行委員長の仕事として、学校代表で徳島市の保健所に行って指導を受け、バザール実施の許可をもらってきた記憶があります。

この時点から、市高祭実行委員会の1メンバー、文化祭実行委員長、クラスのバザールおよび大旗小旗の準備、フォークサークル同好会のライブハウス準備、フォーク&ロックのオーディション受審の準備、と並行して進めていく事になりました。まったく、膨大な業務をどうやって裁いていたのか、まったく覚えていませんが、自分としては失恋を引きずっている現状を忘れるべく、心と頭の隙間を埋めていたのでしょう。

そしてまたまた1日8時間の自主学習を是とする夏休みに突入するわけです。信じがたい事ですが、この多忙な夏休みの間に、僕の音楽ルーツとして語るべき貴重な体験をいくつか経ていくことになります。それはまた次回のお楽しみに。

今日も読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(14)高校編 その11

高2の1学期(前半)

過酷な高1の1年間を終え、無事に2年生に進級することになりました。

いわゆる「ヨリを戻す」可能性なんてないとわかっていながら、心の中ではCさんにこだわりつつ日記を書き続けていました。前の記事にも書いた通り、図書室カウンター内の司書室に生徒会や写真部の先輩がいらしたので、昼休みはそこへ逃げ込んでいました。司書室では飲食も黙認されていたのでお弁当を持って行きましたが、ほぼ神経性食欲不振の状態だったので、常時空腹のガタイの良い先輩に食べてもらっていました。

僕の失恋が、学校内でどこまで噂だったかはわかりませんが、自覚する以上に知られていたと思います。だから、他人に自分の恋バナをする事にもまったく抵抗がありませんでした。そのうちに、新1年生が出没するようになり、生徒会活動をしている理数科の先輩から「私の妹分」といって、Kさんを紹介されました。とても明るく外向的な性格の女性で、中学時代からの彼氏もちゃんといるとお話ししてくれました。お返しではないのですが、僕も自分の恋バナをして差し上げました(笑)。その後もほとんど毎日会うので、時々お手紙をくれるようになり、中学以来の文通を楽しむ日々が始まりました。それは当時の僕にとっては本当に救いだったと思います。

さて、市高は5月に校外行事があります。1年生は淡路島の宿泊研修、2年生は東京方面への修学旅行、3年生は眉山への遠足です。ちょうど下宿に、東京の浪人生活の後に徳島大学医学部へ進学された先輩が入ってこられたので、東京でのグループ行動(自由研修)のプランを教わったりしながら、真面目かつ入念に準備をしました。不真面目な輩は、新宿歌舞伎町とか、原宿でタケノコ族に混じって踊るとか、渋谷の109とか、色々話していましたが、僕らのグループはメンバーが超アカデミック(笑)だった事もあり、皇居を外回りで一周して、有楽町、霞ヶ関、秋葉原、本郷(東京大学)、上野公園等を訪問するプランでした。

記憶は非常に曖昧なので、例によって校誌「葦芽(あしかび)」の記録に頼ります。この号(1985年発行第23号)の編集から自分自身も関わっていて、随所に僕のイラストやレタリングが掲載されているので、それもご覧下さい。

僕らの学年は11クラスだったので、旅行は2団に分かれて、それぞれ別の旅行会社のスケジュールになりました。僕らは第2団の5月8日出発でした。第1日は徳島駅前集合で徳島港からフェリーで東神戸港へ渡り、名神・東名高速をバスで走ってトヨタ自動車工場へ訪問、竹島宿泊、第2日は白糸の滝、富士山と移動し、河口湖宿泊、第3日は中央高速を通って東京タワー、そして新設されたばかりの東京ディズニーランドへ! 第4日目は自由研修、第5日目は新幹線で新大阪まで移動して、あとは往路と同じフェリーで帰る、というプランでした。今から見直しても、ワクワクしますね(笑)!

校誌「葦芽(あしかび)」からの切り抜きですが、第1団、第2団とも、出発時のトキメキと、トヨタ自動車工場の広報戦略(?)の巧さが読み取れる記事です。太いペンで書いたバスと3人の人物は僕のイラストですね。バスガイドさんのイラストのモデルは上述のKさんです。

白糸の滝や富士山も感動しましたが、思い出としては、白糸の滝で昼食のお弁当を食べていた時、クラスメートが「あの女の子の写真を撮って欲しい」と依頼してきたので、苦労して遠くから撮影したことでしょうか。高校生あるあるの話ですが、今だとコンプライアンスギリギリかも知れません。

やはりハイライトはディズニーランドでしたね。その年にできたばかりでしたし、何もかもが「夢の世界」でした(笑)。カップルの写真も微笑ましい限りですが、Cさんとの仲が続いていれば、もっと楽しい修学旅行だったのかな、と思わざるを得ません(修学旅行のみならず、人生まったく違うものだった可能性もありますが・・・)。

そして、アトラクションの中で最も衝撃的だったのはご存知「スペース・マウンテン」です。「葦芽(あしかび)」にもコーナーが設けられた位、生徒ほぼ全員が乗ったようでした。真ん中の「SPACE☆MOUNTAIN」の文字は僕の手書きです。

その次の日の東京自由研修は、とにかく歩きました。でもあまり良い写真がなく、かつ自分の写っている写真もほとんどありません。非常にアカデミックなメンバーだったため、僕しかカメラを持っていなかったようです。唯一写っているのが下の写真で、上野公園にある野口英世先生の銅像の下に立ったのですが、なんと銅像の足しか写っていません(爆笑)。いやはや、本当にアカデミックなメンバーだったな、と。

そんなこんなで、楽しい修学旅行の思い出の断片を掘り起こすことができました。読んで下さって、ありがとうございました。

高校時代の楽曲(1)

歴史 ~不都合な真実~

1983年(高校1年生)当時は、友人の佐々木雅浩君の詩に曲を付けることがほとんどでした。

「音楽ルーツの考察(6)高校編 その3」でも紹介した「歴史」という曲は、Mackyのアルバムに収録された楽曲中で最古の「歴史」を誇る曲になります。2ndアルバム「ひとあるき」に収録されています。

試聴はこちら(SoundCloud)へ
https://soundcloud.com/user-634662970/06-macky-rekishi-demo

音楽ルーツの考察(13)高校編 その10

高1の3学期

下宿のあった地域には、徳島大学常三島(じょうさんじま)キャンパス、徳島大学教育学部附属小学校・中学校(当時)、徳島中学校、助任(すけとう)小学校などがあり、学術的な雰囲気がありました。その地域から真東に海へ向かって3kmまっすぐ進むと、最後に沖洲川の橋を渡って市高へ到着します。冬になると、自転車通学者には厳しい海風となりますが、約15分の道のりを毎日自転車で通っていました。

僕とCさんは、沖洲川の少し手前にある交差点、エミールという本屋さんの前で待ち合わせて一緒に通学していましたが、Cさんが遅れてくることが多くなり、立ち往生しているところをみんなに目撃されるという毎日が続くようになりました。そのうち、時にすっぽかしを食らう朝も出てきました。それでも、放課後は一緒に帰るわけですが・・・。

十代の頃はあるあるだと思いますが、異性と何を話題にして話せばいいか、さすがのMackyもわかりませんでした。自転車で並んで走っていても、ほとんど口をきかずにCさんの住む地域の近くでお別れするような毎日になっていました。僕はそれでもうれしいと思っていたのですが、Cさんはそうではなかったようで・・・。

3学期、3年生は受験シーズンで忙しいのですが、2月上旬に毎年恒例の映画館での予餞会(映画鑑賞会)が開催されていました。この年は「戦場のメリークリスマス」、映画にあまり興味がない僕は、坂本龍一の音楽と北野武の出演しか認識していないのですが、生徒受けは良かったと思います。生徒会の仕事の一環で、僕は自転車置場の整理を仰せつかり、最初の1時間くらい、自転車をきれいに並べる作業をしました。その後、映画を観に行ったのですが、野営で焚火に照らされた北野武の顔を一瞬見ただけで、あとは待合室で実力テスト対策で百人一首を覚えたり、生徒会活動をしている上級生達と世間話をしたりしていました。

それから数日後、当時はとってもトキめいた2月14日、バレンタインデーを迎えます。それまでも、いわゆる義理チョコはもらっていましたが、その時は一応、自他共に認める交際相手がいた訳ですから、当然、大きな期待をもっていました(笑)。その日の朝の事は覚えていないのですが、その日の夕方、いつものようにCさんと一緒に帰っていて・・・珍しくCさんが話しかけるので、何かと思ったら、一緒の登下校をやめたい、と。

こういうの、天国から地獄へ突き落とされる、っていうんだと、生まれて初めて思いました。話した内容は覚えていませんが、つまり僕は「フラれた」とのだと認識しました。

しばらくは勉強も手につかず、ギターを弾いても悲しい曲ばかり、という状況で、本屋で「青春哀歌」と名の付いた日記帳を買ってきて、鬱々とした気持ちを吐き出していました。当時のCさんへの思いが綴られたその一冊の日記帳は、長年手元にありましたが、15年後の海外留学を機に捨てたと記憶しています。この写真には、その「青春哀歌」と写真立てに入れたCさんの写真の一部が写っています。

日記帳には散文を書いていましたが、もちろん、詩作も並行していて、詩についてはノートの切れ端やルーズリーフに走り書きしていました。それまでは、親友の佐々木雅浩君が作った詩に勝手に作曲する事が多かったのですが、その頃から、自分で曲を付けるための作詞を試みるようになりました。そう考えると、この失恋が作詞家Mackyの誕生につながったのかなと思います。

そんなこんなで、真面目な勉強時間はめっきり減ったにもかかわらず、それなりに成績をキープしており、失恋を心配(?)していた担任も安心しておられたようです。しかし、心の傷は深かったようで、教室以外の居場所を求め、休み時間は図書室などに逃げ込むようになっていました。

また、生徒会活動なども気持ちをそらすのには良かったようで、毎年3月下旬にあるオーケストラ部の定期演奏会でも会場整備係などを仰せつかりました。演奏中に舞台に近いドアを開けないようにお客を誘導する係でしたが、演奏会の間中、何時間も暗いドアの外に立っていました。他クラスの女子グループに「ねぇ、そんなところに立ってないで、どっか(夜の街へ)遊びに行こうよ」と強く誘われて、内心はちょっとうれしかったのに「生徒会の仕事だから」とお断りしたのをはっきりと覚えています。真面目だったんだか、失恋を引きずっていたんだか、今となっては思い出せません。

そうして昭和58年度(1983年度)が終わり、季節は春に向かっていきます。読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(12)高校編 その9

高1の2学期(後半)

満開の桜も散り始め・・・の頃に、秋が深まる話になって恐縮です。高1の2学期というのは、本当に色々なことがあったように思います。話が前後していくかも知れませんが、ご容赦下さい。

市高祭が終わり、再び学業に没頭しなければならない時期なのですが、その反面、学校行事の色々な事に首を突っ込んでいたように思います。例えば、この写真は、明らかに市高祭の反省会で、服装からも9月頃と予想されます。司会をしているのは当時の生徒会長で、写真の左側、席の後方で両腕をカバンに載せて偉そうに聞いているのが僕なのは間違いありません。当時、既に生徒会の活動にも参加していたようです。

その後、秋に生徒会選挙があって、選挙には出ませんでしたが、新執行部で書記を拝命し、色々な活動に参加していく事になります。校誌「葦芽(あしかび)」の生徒総会の記事を一番下に転載しますが、その年12月の生徒総会でも書記を担当していた事が確認できます。小さい字ですが議事録が読み取れます。自由な校風で有名な高校でしたが、ここまで生徒自治が発達していたとは、今更ながら驚きです。

ここでこれから語る「事件」における、女性の登場人物を整理します(笑)。まずは、前回(高校編8)の記事で登場したAさん、僕に好意を持ってくれているという他クラスの美人さんです。そして、前々回(高校編7)の記事で登場(お寺のセミナーの肝試しでご一緒)したクラスメートのCさん、それから、その二人と仲良しのクラスメートのBさんがキーパーソンになります。

僕とBさんを含む何名かのクラスメートは、朝登校するのが早く、始業前30分くらいには教室にいて勉強しているのが常でした。10月のある朝、Bさんにベランダに呼び出され、以下のようなお話をされました。

「CさんがMackyくんとお付き合いをしたいと言っている。Aさんの事は私達も知っているから、決めるのはMakcyくんだけど、もしOKだったらCさんに話してあげて。」(注:当時はMacky君というあだ名ではありません)

こういう場合、クラスメートであることと、話をしたことがある、というのが強みだと思いましたね。あまり迷うことなく、お付き合いする旨、Cさんに伝えました。お付き合いする、と言っても、基本的に登下校を一緒にするだけ、でした。一度だけのデートは、今は閉店してしまった「徳島そごう」。マフラーを編んでくれるとのことで、二人で毛糸を選び、1階のロッテリアでお茶をしました。選んだ毛糸の色は白、予想よりとても早く仕上がってきたのを覚えています。

そのデートの日は、壊れていたカメラが直っていたので、Cさんの写真も少しだけ撮影しました(今はもう残っていませんが)。同時期に撮影した風景を2つほど載せておきます。場所は、徳島城趾の周りにある徳島公園で、この辺りを通って下宿から駅へ移動していました。デートの帰りもこんな風景を見ながら帰った記憶がありますし、ひょっとしたら、本当にその帰りに撮影した写真かも知れません。

2学期の間は、Cさんと一緒に登下校をすることだけで、うれしかったのを覚えています。そのうち、全校に知れ渡ることになり、Aさんが冗談っぽくCさんとBさんを責めているような光景にも出くわしましたが、仕方ないなとスルーしていました。Cさんは朝が遅く、しばしば待ち合わせ場所で立ち往生していましたが、その時間も含め、大切な時間だったと思います。

女子の家庭科の授業でケーキを焼くので食べて欲しいと言われ、楽しみに待っていたら、置いていたケーキに誰かが座ってしまい、食べられなかったこととか、クリスマス・プレゼントとして、電子オルゴールを組み込んだ木箱を作って、フタの裏側に「Merry Christmas」と彫るつもりで「Marry Christmas」と彫ってしまったこと、など、何かうまくかみ合っていなかったのかも知れませんが、良い思い出です。ちなみに、Cさんはクラスでも英語はトップだったので、スペルミスは、今思い出しても赤面しそうです。

寒さが厳しくなっても、心は温かく、高1の2学期は過ぎていきました。生徒会活動もあったと思うのですが、成績もクラスの真ん中辺りで安定していました。ただ、この頃から、ずっと自慢だった視力が悪くなり始めます。冬休みは里帰りをして、平和に過ごしていたつもりでしたが、今になって思えば、休み中にデートの約束とか、していれば良かったのかも、と思わないではありません。

そうして昭和58年(1983年)が過ぎていきました。今日も読んで下さって、ありがとうございました。