音楽ルーツの考察(12)高校編 その9

高1の2学期(後半)

満開の桜も散り始め・・・の頃に、秋が深まる話になって恐縮です。高1の2学期というのは、本当に色々なことがあったように思います。話が前後していくかも知れませんが、ご容赦下さい。

市高祭が終わり、再び学業に没頭しなければならない時期なのですが、その反面、学校行事の色々な事に首を突っ込んでいたように思います。例えば、この写真は、明らかに市高祭の反省会で、服装からも9月頃と予想されます。司会をしているのは当時の生徒会長で、写真の左側、席の後方で両腕をカバンに載せて偉そうに聞いているのが僕なのは間違いありません。当時、既に生徒会の活動にも参加していたようです。

その後、秋に生徒会選挙があって、選挙には出ませんでしたが、新執行部で書記を拝命し、色々な活動に参加していく事になります。校誌「葦芽(あしかび)」の生徒総会の記事を一番下に転載しますが、その年12月の生徒総会でも書記を担当していた事が確認できます。小さい字ですが議事録が読み取れます。自由な校風で有名な高校でしたが、ここまで生徒自治が発達していたとは、今更ながら驚きです。

ここでこれから語る「事件」における、女性の登場人物を整理します(笑)。まずは、前回(高校編8)の記事で登場したAさん、僕に好意を持ってくれているという他クラスの美人さんです。そして、前々回(高校編7)の記事で登場(お寺のセミナーの肝試しでご一緒)したクラスメートのCさん、それから、その二人と仲良しのクラスメートのBさんがキーパーソンになります。

僕とBさんを含む何名かのクラスメートは、朝登校するのが早く、始業前30分くらいには教室にいて勉強しているのが常でした。10月のある朝、Bさんにベランダに呼び出され、以下のようなお話をされました。

「CさんがMackyくんとお付き合いをしたいと言っている。Aさんの事は私達も知っているから、決めるのはMakcyくんだけど、もしOKだったらCさんに話してあげて。」(注:当時はMacky君というあだ名ではありません)

こういう場合、クラスメートであることと、話をしたことがある、というのが強みだと思いましたね。あまり迷うことなく、お付き合いする旨、Cさんに伝えました。お付き合いする、と言っても、基本的に登下校を一緒にするだけ、でした。一度だけのデートは、今は閉店してしまった「徳島そごう」。マフラーを編んでくれるとのことで、二人で毛糸を選び、1階のロッテリアでお茶をしました。選んだ毛糸の色は白、予想よりとても早く仕上がってきたのを覚えています。

そのデートの日は、壊れていたカメラが直っていたので、Cさんの写真も少しだけ撮影しました(今はもう残っていませんが)。同時期に撮影した風景を2つほど載せておきます。場所は、徳島城趾の周りにある徳島公園で、この辺りを通って下宿から駅へ移動していました。デートの帰りもこんな風景を見ながら帰った記憶がありますし、ひょっとしたら、本当にその帰りに撮影した写真かも知れません。

2学期の間は、Cさんと一緒に登下校をすることだけで、うれしかったのを覚えています。そのうち、全校に知れ渡ることになり、Aさんが冗談っぽくCさんとBさんを責めているような光景にも出くわしましたが、仕方ないなとスルーしていました。Cさんは朝が遅く、しばしば待ち合わせ場所で立ち往生していましたが、その時間も含め、大切な時間だったと思います。

女子の家庭科の授業でケーキを焼くので食べて欲しいと言われ、楽しみに待っていたら、置いていたケーキに誰かが座ってしまい、食べられなかったこととか、クリスマス・プレゼントとして、電子オルゴールを組み込んだ木箱を作って、フタの裏側に「Merry Christmas」と彫るつもりで「Marry Christmas」と彫ってしまったこと、など、何かうまくかみ合っていなかったのかも知れませんが、良い思い出です。ちなみに、Cさんはクラスでも英語はトップだったので、スペルミスは、今思い出しても赤面しそうです。

寒さが厳しくなっても、心は温かく、高1の2学期は過ぎていきました。生徒会活動もあったと思うのですが、成績もクラスの真ん中辺りで安定していました。ただ、この頃から、ずっと自慢だった視力が悪くなり始めます。冬休みは里帰りをして、平和に過ごしていたつもりでしたが、今になって思えば、休み中にデートの約束とか、していれば良かったのかも、と思わないではありません。

そうして昭和58年(1983年)が過ぎていきました。今日も読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(11)高校編 その8

高1の2学期(前半)

しばらくご無沙汰しました。どの業種でもそうですが、年度の替わり目は忙しいものですね。

2学期の事を書き始めようと思ったのですが、少し遡った話をしておく必要があります。1学期の期末テストが終わると、夏休み前の短縮授業+補習が数日続き、終業式前の2日間くらい球技大会になると思います。当時、競技としては、ソフトボールと卓球が相場だったように記憶しており、僕も活躍はしないまでも出場していたように思います。その当時は、我が理数科も体力が有り余っていて、学年優勝を含めいいセンを行っていたと記憶しています。

夏に向かって浮き足立つそのような季節に、さらに浮いた噂が飛んできました。他クラスのある女子(仮にAさんとしておきます)が、僕に好意を持ってくれていると・・・。それが「え?」っていうくらいに可愛い女子だったので、僕もまんざらな気持ちではなかったのですが、すれ違って会釈をする程度で何も進展する事なく時間が過ぎていました。クラスの友人達はとても面白がって、球技大会の合間に僕を担ぎ上げて、Aさんのいるところへ運んで行ったりするのですが、恥ずかしくて走って逃げ帰ることしかできず・・・今となっては良い思い出です。

そして、夏休み、市高祭の準備、と進み、2学期が始まり、あっという間に市高祭になりました。前夜祭は体育館での「フォーク・ロック」が目玉で、B君の長渕剛で幕を開けました。2日目の文化祭は、模擬店、文化系クラブの展示、体育館での舞台(ロック、新体操など含む)、他校の生徒にもオープンで、たくさんの人々で賑わいました。

1年生でクラブ所属もなかった僕は、ひたすら写真を撮ったりしていたのですが、後日フィルムを現像に出した際に何も写っておらず、カメラシャッターが壊れていた事が判明して、がっかりしました。そのため、この頃は自分で撮影した写真が何も残っていないのです。仕方がないので、校誌「葦芽(あしかび)」から拝借しました。

3日目の体育祭では「スター・ウォーズ ジェダイの帰還」の大旗の前に陣取り、チャゲ&飛鳥の小旗を持って入場行進をしました。競技は採点されますが、当時の記録によると、入場行進が11クラス中1位、応援合戦(学ランを着ての正統派)が11クラス中2位となっており、クラスの団結の強さを示していました。僕は1500メートルでクラス代表だったのですが、当日、あまりに気合いを入れすぎて、朝5時起きでアップなどしていたものですから、本番で失速して11人中8位に終わってしまいました。そのせいではないのですが、総合成績も11クラス中7位に沈んでしまったと記憶しています。

とにかく真面目な高校1年生だったので、学校をさぼって遊びに行ったり、校内で羽目を外したりすることもなく、浮いた話もその後進展する事もなく、9月29日には16歳となり、2学期は平和に過ぎて行きました。10月は旺文社全国模擬試験があり、我がクラスメートが全国1位を含む上位を席巻しました(この時は、大体クラス順位x2=徳島県の順位、徳島県の順位x2=全国順位)。僕自身もまぐれで成績優秀賞をもらってしまったものですから、高校生活を通じて精神的に最も安定していた時期だったと思います。

そんな平和な生活を脅かすのは、やはり「アノ手」の事件に違いないのですが、それは次回以降にお話しします。今日も読んでいただき、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(10)高校編 その7

高1の夏休み(後半)

お盆も明けた8月19日(頃だったと思いますが)理数科セミナーと銘打って四国霊場八十八カ所の第二十番札所である「鶴林寺」へ1泊2日の合宿へ行きました。賢明な読者の方は大丈夫だと思いますが、「つるりんじ」ではなく「かくりんじ」と読みます。

霊鷲山 宝珠院 鶴林寺
https://88shikokuhenro.jp/20kakurinji/

バスに揺られて1時間ほどの旅でしたが、到着するや否や、早速、数学の授業が始まり、訳のわからないまま教科書50ページくらい進んでしまいました(笑)。大部分のクラスメートは大丈夫そうでしたが、少なくとも僕には数学の教科書を「ただ読んだだけ」という印象でした。その後は対応する教材である数研出版の「スタンダード」なる問題集を先生がひたすら解いていた記憶がありますが、僕には解けませんでした・・・深刻な状況なのに、何故か危機感は薄かったです。

休み時間にプラスチックの野球セットを使って境内で野球をしたり、夜に花火大会をやった事が思い出に残っていますが、次の日、文化財のそばで花火をやった「罪」で、担任の先生が住職から喝を食らった時にはクラス全員凍り付きました。また、夜は男女分かれて「宿坊」の畳部屋での雑魚寝でしたが、ハウスダスト+ダニのアレルギーが出て、くしゃみが止まらなくなってしまい、部屋では眠れず、一人廊下で寝たことも、今はまあ良い思い出です。

さてさて、話は前後しますが、我々のクラスは男子31名、女子10名の計41名で構成されていました。当然のことながら、夏の夜の恒例といえば、花火大会と肝試し大会という事で、実現となりました。お寺ですから怖い場所には事欠かない訳です。男子の約10名がお化け役、残り男子20名がくじ引きで男女ペアになる(女子は2回参加)というルールでした。

このシチュエーションでトキメかない男子はいないと思うのですが(笑)、諸々の理由で半分冷静に、ちょこっとだけ期待してくじを引いた僕は、ちょこっとだけ気になっていた存在のCさんとペアになりました。

石段を登って上のお堂から何か紙を取って戻ってくる、ほんの数分間なのですが、まあ、道端にはお化け役で脅してくるクラス男子がたくさんいるし、八十八カ所のお寺に慣れきった自分(※)には怖さなど微塵もない時間でした。普段はあまり話さないCさんでしたが、静かすぎると雰囲気が微妙なので、頑張って他愛のない話をしたような記憶があります。

(※)地元美波町には第二十三番札所の「薬王寺」があり、小中学校の通学路上に位置しているので、毎日のように休憩場所にしていました。大晦日の紅白歌合戦が終わってから初詣に行く習慣でしたので、夜の境内を回るのには慣れていました。

日和佐浦(漁港側)から薬王寺を望む

医王山 無量寿院 薬王寺
https://88shikokuhenro.jp/23yakuoji/

読者の皆様の期待の大きさを感じ、先を急がないといけないところですが、色々な伏線が絡み合うため、今日はここまでとします。読んでいただき、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(9)高校編 その6

高1の夏休み(前半)

市高生活のハイライトは、夏休みが明けてすぐに行われる市高祭だと思います。徳島県の高校では最も早く行われる秋の文化祭行事で、土曜日の前夜祭、日曜日の文化祭、月曜日の体育祭、と3日連続で行われる事も有名です。3年生は、市高祭が終わってからは受験に専念できるように、という配慮からだと聞いていました。

進学校の常で、夏休みに入っても補習は続き、里帰りしたのは8月のお盆前後だけだったと思います。当時、徳島の高校野球といえば池田高校で、1983年の夏、夏春連覇をした後に桑田・清原のKKコンビとベスト4で対決します(つまり、僕は彼らと同じ歳です)。当然ながら、補習にラジオ持ち込みでしたが、1回早々に大荒れの試合展開となり、全員上の空で補習を聞いていました。あの頃は、日本全国、池田高校の負けを誰も予想できなかったくらい強かったのです。先生もわかっていたと思うのですが、僕は途中で指名されて、イヤホンを外すのに失敗してクラスの失笑を買いました。漫画みたいな光景ですが、それくらい自由でした。

夏休みに入ったばかりの頃、前夜祭と文化祭の舞台で行われる「フォーク・ロック」のオーディションが開催されました。これが、愛機 YAMAHA L-7Sの第2陣で、僕と佐々木雅浩君は「メロディII」というデュオグループで出演します。この時、フォークを選んだのは、他クラスの1年生のソロが2名のみ、あとはロックバンドばかりでした。おそらくフォークとして1枠を争う事になる中で、我々は鉄板の「精霊流し」を歌い、出来は悪くはなかったと思うのですが、結果的に長渕剛(ライブ・バージョンの「巡恋歌」を完全コピーで披露したB君)に負けました。彼の愛器はYAMAHAのL-6だったか?と思いますが、別の安いギターにヘビーゲージ(一番太い弦)を張って、1日3時間は練習する、という強者でした。

ちなみに、我々のユニット名は佐々木君の提案だったのですが、坂元昭二師匠と福留順一さんのフォーク・デュオから拝借したのは明らかで、当時は、こんな田舎の無名の高校生が名前を拝借したところで将来には何の影響もない、と思っていたのですが・・・。その後、メンバーの1人にギターを習い、もう1人が経営する酒場(東京中野にある「ゆらゆら」)で歌ったりする事になるとは、本当に人生はわからないものですね。当時の写真がないので、この2年後の「メロディII」の雄姿(笑)を載せておきます。

市高祭の体育祭で、クラスの陣地を飾る大旗と入場行進で使う小旗を、夏休み中に準備することも恒例でした。布が学校から配布され、クラスの机を端っこに寄せて、新聞紙を敷き詰めて、白い帆布を広げて絵の具で描いていきます。この年は、「スター・ウォーズ ジェダイの帰還」が話題だったので大旗に採用され、僕が提案したチャゲ&飛鳥のロゴマーク(https://www.lancers.jp/profile/hiromitsu-kohno/portfolio_popup/238043)が小旗に採用されました。

そんなこんなで夏休みは(1日8時間の自主学習を強いられつつも)平和に過ぎていきますが、同じ夏休みの後半には、自分の高校生活に影を落とす(笑)事件の伏線が忍び寄るとは、当時は想像だにしていませんでした。

今日も読んでいただき、ありがとうございました。

初めて人前で演奏されるために作った楽曲

「音楽ルーツの考察(3)小学校~中学校編 その2」で紹介した、全校音楽会で発表するためのクラスの歌の楽譜を発見したので掲載します。中3なので、1982年(昭和57年)の作品ですね。作詞者がどなただったか思い出せないのですが、万が一、このブログを読むことがあったらご連絡下さい。

卒業までの道程で 
思い出ようさん つくらんけ
別れの年に なるんやけん
ほんでも 3Bの思い出を
忘れれんような 思い出を 
3Bのみんなで つくらんけ

音楽ルーツの考察(8)高校編 その5

高1の1学期

当時の市高では、入学直後の5月中旬に2泊3日の集団宿泊研修があり、クラスや学年の親睦を深めることができました。当時は淡路島にある国立淡路青年の家が舞台でした(当時、すでに老朽化が進んでいましたが、今はどうなっているのでしょうか?)。

1日目のクラス対抗歌合戦と2日目のキャンプファイヤーの2つの機会で、それぞれクラスから出し物を企画せねばならず、4月早々から学級活動(Long Home Room: LHR)で話し合いを行っていました。いろいろな案がありましたが、結果として、クラス対抗歌合戦では我々3人がギター伴奏をしての合唱、キャンプファイヤーでは人間カラオケ(全パートを肉声で表現するインスト)をやる事になりました。合唱の曲は3曲(季節の中で、悪女、北酒場)、人間カラオケは2曲(BODY SPECIAL II、異邦人)でした。

その翌日から、ギターを持ち込んでの練習になりました。ショルダーストラップ付きとはいえ、ハードケースを抱えての自転車通学は異様に目立ったようで、通学路に立つ交通指導の先生達に必ず声を掛けられる始末でしたが、特に叱られたりはしませんでした。ギター練習というよりは、LHRでクラス全員いきなり練習、という感じでした。広い会場で音量重視のため、ストロークでの伴奏は前提で、3人ともそれぞれに個性が出たのを覚えています。僕は当時あまりストロークを練習していなかったので、シンコペーションを伴う8ビートのリズムがうまく取れず、少し苦労しました。休み時間にも、ギターでいろんな人と一緒に歌ったりしながら、友人も増えていって幸いでした。

宿泊研修本番の事は断片的にしか記憶がないのですが、幸い、写真はたくさん残っています。昨今の個人情報保護の観点から、公開は難しいのですが、ソフトボール大会と卓球大会があって、両方我々のクラスが優勝したとか、合唱は非常にうまくいったとか、砂浜での人間カラオケはさすがに音量不足だったとか、ハイキングの道のりとか、都会的な他クラスの女子生徒が眩しかった思い出とか、いろいろあります。写真は、宿泊室に入った直後だったと思いますが、早速ギターを取り出して弾いていました。横に松山千春の楽譜がありますね。愛機 YAMAHA L-7Sの初陣は、かようにたくさんの人目に触れる機会でもありました。

さて、淡路島から帰ると、本格的に勉強中心の毎日になっていきました。当時は土曜日も午前中授業があり、午後2時頃の汽車で故郷に帰り、翌日午後の汽車か父の車で下宿に帰ってくる、という生活をしていたので、週末はあまり勉強に集中できていなかったと思います。そのせいで、1学期の中間試験も、ブービーではないにせよ、割とひどい成績だった記憶があります。一方で、時々ある業者(進研ゼミ、旺文社、駿台など)の模擬試験では相対的に良い成績だったので、自分の精神的には「やればできる」とポジティブだった(逆に言うと油断していた)ように思います。ただ、クラスから時々全国1位が出たりするので、当初の闘争本能はどこへやら、トップを目指すなんてとんでもない、という引け目を感じ始めていました。

そんなふわふわした感じの1学期はあっという間に終わり、夏休みに突入しますが、しばらくは補習が続き、さらに9月中旬にある市高祭(前夜祭・文化祭・体育祭)の準備、泊りがけでお寺に合宿する恒例の理数科セミナーなどイベントが目白押しで、今から思うと、じっくり個人で勉強するペースがつかめないままに時間が過ぎていったと思います。そんな夏休みに、愛機 YAMAHA L-7Sの第2陣が訪れますが、それは次回の機会にお話しします。

今日も読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(7)高校編 その4

ギター購入

高校入学前からの初志貫徹で、新たにギターを購入しようと佐々木君に相談したところ、自分がMorrisを購入したGuitar House RaB(現:黒崎楽器)というショップに一緒に付き添ってくれました。高校入学祝いで祖父母にもらった10万円を握りしめて行ったのですが、予算は8万円上限と決めていました。今から思うと10万円上限と決めていれば良かったのですが、この真意が理解できる方はかなりのギターマニアでいらっしゃいます(笑)。

それほどのギターマニアではない、とおっしゃる方のために少しだけ解説致します。ギターの構造上、撥弦して表板(トップ)を振動させて作った音響を、ボディ内部で跳ね返してサウンドホールから発するために重要なのが裏板(バック)です。裏板と側板(サイド)に用いる材の中で、古今東西最も人気が高く、優れた評価も多いのがブラジリアン・ローズウッド(通称「ハカランダ」)です。

なお、現在、ブラジリアン・ローズウッドは、森林伐採等の影響で非常に希少となり、ワシントン条約(CITES)の規制で最も厳しい附属書I(原則として商用取引禁止)となっており、ストック材や古材を使用しない限り、新しく楽器や家具を作る事はほとんど不可能になっています。

1980年当時、定価10万円のYAMAHA L-10がモデルチェンジをされた頃かと思います。このL-10の前期型がハカランダを使用していて、後期型がより一般的なインディアン・ローズウッドに変わります。田舎でしたので、まだ「前期型」が在庫していた可能性があり、予算10万円であれば入手できたかも知れないと思う次第です。

しかし、そんな事を知る由もない当時の僕は、中学生の時にギター雑誌で見て憧れていた限定販売のYAMAHA XSシリーズという黒いギターを狙っていました。実は数日前にショップの下見をした時はXS-16(当時定価8万円)が飾られていて、(新品なので当然ですが)とても綺麗な状態だったので、それを本命と考えていました。ところが、当日訪れてみると、そのギターは試奏を繰り返された後のようで、中古品のようになっていて、一気に買う気が失せました。佐々木君も、木目調のギターの方が良いとのことで、これは却下となりました。

後日談ですが、数年前に佐々木君に再会した時、この時のことをよく覚えていて「最初にギターを買う時、黒いギターに反対して悪かった」と言ってくれました。まあ、自分でも積極的には選べなかったので、そもそも縁がなかったのだと思います。でも、この上位機種であるXS-56が中古市場に出てくると、今でも少し心がときめいたりします(笑)。

さて、店員さんに予算8万円であることを告げると、ショーウィンドウに飾られていたYAMAHA L-7Sを出してきて、今年発売のL-8S(定価8万円)と同じであるが定価7万円であること(これも後に事実でないことが判明しますが、まあ見た目はほとんど同じです)を説明されました。また、トップは綺麗でしたが、バックに大きな打痕キズがあるため、多少キズを修正して、1万円値引きしてくれるとのことでした。傷はすでに塗料を盛ってあったので、そこをヤスリで削っていっていましたが、それを見ていた佐々木君は顔をしかめて「これはやめた方が良い。別の新品のギターにすれば良いじゃないか。」と言ってくれたのですが、僕は心の中ではこのギターを買うことに決めていました。

その理由は、このギターYAMAHA L-7Sの外観です。

GibsonのHummingbirdを思わせる全貌(当時はGibsonなんて知りませんでしたが)、それに加えて、ピックガードにはなんとアゲハチョウが羽ばたいています。もう、これだけで自分のためのギターだと信じて疑わなかったですね。この記述がピンとこない方は、小学校~中学校編その1を読み返して下さいね(笑)。

このギターの初陣については次回にお話しします。今日も読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(6)高校編 その3

高校生活の始まり

下宿から高校までは距離にして約3km、ほぼ東へ一直線の道路でした。毎日自転車で通っていました。高校編その1で書いた通り、沖洲川を渡って海へ向かっていく道なので、時に海風が強くて難儀することがありました。通学路上には、徳島市民病院、各種飲食店(蕎麦屋、お好焼屋、モスバーガー他)、スーパー、ボウリング場などがあり、田舎者には何とも心が躍る道程でした。

入学式はあまり記憶にないのですが、入学生代表で宣誓をした入試成績トップの生徒(当然同クラス)に対して、いつか勝ってやる、という無謀な思いを抱いていた事だけ覚えています(まもなく、実力テストのブービー賞が判明して己のほどを理解することになります)。その後、クラスに分かれて担任の先生からの話、そして自己紹介という定番の流れになりました。自己紹介の内容として趣味や音楽の話も多く、印象的なのは、クラスには僕を含めて3名のギタリストがいて、3名全員さだまさしのファンだという事でした。

この後、高校生活を通じて一緒に音楽活動や詩作をしていく事になる佐々木雅浩君は、僕と同様に地方から出てきてアパートに下宿しており、真面目さと静かさと秘めた情熱を兼ね備えた男でした(今もそうです)。佐々木君の愛器はMorrisのW-60、当時定価6万円でした。休みの日などは、ギターを持って吉野川河川敷へ行ったり、互いの部屋を含めて色々な場所で練習した記憶があります。写真は「溜まり場」となっていた校誌「葦芽(あしかび)」編集室、左側で彼がギターを弾いて、右側で僕が歌っています。花が写っているので、3年後の卒業式の時らしく、時間が矛盾しますがここに載せておきます。

もう一人のS野君は当時クラスの大部分を占めていた徳島大学教育学部附属中学校の卒業生で、背も高く、スポーツ万能で、喧嘩も強そうな男でした。下の写真ですが、ご本人とは連絡が取れていないため、目線を入れて掲載します(もしご本人がこの記事を目にすることがあれば是非ご連絡下さい)。さだまさしのアルバム「印象派」の曲はほとんどコピーしていて、「距離」「聖野菜祭」「検察側の証人」など、よどみなく弾いていました。当時、オリジナル曲も既に多数作っていて、とても刺激を受けたのを覚えています。S野君の愛器はYAMAHAのL-8で、当時既に相当に弾き込んでいた印象です。

余談ですが、2024年12月に出したセカンドアルバム「ひとあるき」には、佐々木雅浩君の高校時代の詩を元にして作った楽曲が3曲入っています。4. 旅立ち、6. 歴史~不都合な真実~、9. 一歩(ひとあるき)です。「歴史~不都合な真実~」は90%以上彼の言葉が残っていて、CD化された曲の中では最も「歴史」の古い曲となります。

2025年12月22日発売「ひとあるき」 購入はMacky Guitars (https://mackyguitars.thebase.in/) へ

今回、ギターを買いに行った話をしたかったのですが、あまりに長くなってしまったので、ここで一旦終了と致します。読んでいただいて、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(5)高校編 その2

下宿生活

小学校~中学校編その1にて、中学受験に触れ「超虚弱体質だった自分には2時間近くかけて汽車(※)通学とか下宿するとかいう選択肢は皆無」だったと書きましたが、3年間で僕も強くなったのだと思います。さすがに汽車通学は難しかったので、賄い付きの下宿生活となりました。

(※原文は「電車」と書きましたが、徳島は未だに電化されていませんので正確には「汽車(ディーゼル機関車)」です)

大家さん宅の2階に住まわせてもらい、朝夕の食事とお弁当を作ってもらえる事になりました。当時の同居人は、大家さんのご家族5名と隣の大学生が1名、1階に単身赴任の会社員が1名、さらに併設されたアパートに住んでいた大学生が4名という大所帯でした。大家さんの息子さんや娘さん(当時小学生)、お父様、会社員の方や大学生のお兄さん達とも交流の機会があり、それはそれで楽しかった思い出がたくさんあります(そのうち、ご紹介する機会もあるでしょうか)。

お部屋は6畳一間でこのような感じです。自分が写っている下の写真は、背後に「余弦定理」が張ってあるので、多分高1の秋頃だと思います(理数科は授業が進むのだけは速かったのです)。当時から、平日1日5時間、土日は8時間の家庭学習をするよう指導されていた記憶があり、1年生の頃は相当頑張って寝不足でした(それでこの写真も人相が悪いのか?)。思い返すとまったく馬鹿げた事だったと思います(笑)。

入学前の春休みに実力テストがあり、自信過剰なのか気が抜けていたのか、今ひとつ勉強していなかった僕は、クラスでブービー賞を取ってしまい、最初から担任に目を付けられてしまいました。後から知った事ですが、クラスの大半は、既に中学校で高校1年生まで勉強し終えていたようです。ど田舎のお山の大将の認識はかなり甘かったと言わざるを得ません。

それでも、入学前からの初志貫徹で、4月早々にフォークギターを購入しに行くのですから、昔から強心臓でしたね。大都市(笑)のギターショップに行くのは初めてなので、さすがに一人では行けませんでしたが・・・。この話は長くなるので、次回に譲りたいと思います。

高校編のプロローグを引っ張ってしまいましたが、読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(4)高校編 その1

母校「徳島市立高校」の紹介

高校編を本格的に開始する前に、僕が心から愛する母校をご紹介したいと思います。高校編を書き始めるにあたり、高校関連の冊子を読み返したり、当時の写真を探したり、昔の作詞作曲資料に当たったりしましたが、本当に色々な経験をさせてもらった3年間で、間違いなく自分の人生で最も輝いていた季節だったと思います。

昭和37年(1962年)創立の比較的新しい学校で、よく「名前のない学校」と言われます。「徳島市立高校」というシンプルな名称の高校で、書類を書くとき「○○立△△高校」と記載しますが、我々は△△を空欄にせざるを得ない、という事実に基づく噂です。通称は「市高(いちこう)」です。

卒業生で有名人というと、真っ先に漫画家の柴門ふみさんが思い浮かびます。最近だと政治家の仁木博文さんも厚生労働副大臣として頑張っておられます。現時点では有名ミュージシャンはおられないと認識していますが、徳島出身のミュージシャンならば、米津元帥、アンジェラ・アキが間違いなく二大巨頭になりますね。

僕は22期生で昭和57年(1982年)入学、昭和60年(1985年)卒業です。当時、普通科の他に理数科が1クラス設置されていて、普通科はいわゆる総合選抜方式で採用されますが、理数科は全県唯一の学科でもあり、県下全域から成績優秀者が集っていました。スポーツも活発で、我々の学年と同じ年に赴任された逢坂利夫先生がサッカー部の監督になられ、3年目で全国高校サッカー選手権大会へ出場、平成4年(1992年)に全国高校総体で優勝された事は記憶に新しいです。

徳島市立高校 創立25周年記念誌 グラフ・年表 市高二十五年史 より

徳島市立高校を市街中心部側から撮影するとこのような風景になります。徳島市最東部の沖洲(おきのす)という土地(元は葦原だったらしい)に建てられた高校で、手前に見える沖洲川を渡って毎日自転車通学しました。水辺と海が好きな僕にとっては絶好のロケーションでした。

音楽的なことでは「校歌」、編曲者が偉大なる中田喜直先生というのが、当時からすごいことだと思っていました。

僕らの学年は普通科10クラス450名と理数科1クラス41名だったと記憶しています。中学校までは1学年3クラスだったので、特に通学時は人の多さに圧倒されていました。自転車通学が多いので、自転車置き場はとても大きく、なんと2階建てでした。

上段の写真は、授業風景と生徒総会です。生徒総会で様々な事を決定できる自由な校風を誇りとしていて、他校では問題になりそうな事も比較的緩かったと思います。服装を例にとると、女子の制服は黒のブレザー、靴下の色は白黒紺が許可、防寒用の白コートや黒タイツもOKという感じでした。ちなみに、生徒会活動もやっていたので、生徒総会の写真の壇上左から3番目は僕だと思います。

今日の最後に、さだまさしファンの読者の方々に喜んでいただけそうな写真を掲載します。

母校から市街中心部を眺めると「眉山(びざん)」が見えます。言うまでもない事ですが、さだまさしの楽曲、小説、映画に出てくるあの「眉山」です。当時も毎年のように徳島でコンサートをして下さっていたので、僕も時にお会いすることができました。

今日も読んで下さってありがとうございました。