音楽ルーツの考察(3)小学校~中学校編 その2

MEMBERのShota君がFacebookで「高校編が楽しみ」とコメントされたところですが、中学校編をもう少し引っ張ります。

既に話したように、小6の時にさだまさしと甲斐バンドでFolk & Rockの洗礼を浴びた訳ですが、中学校に入ると、長渕剛、チャゲ&飛鳥、雅夢、中島みゆき、などを同時に聴くようになり、楽譜を入手して部屋で弾き語りもやっていました。4本指のスリーフィンガーピッキングなど、ギターテクニックは完全に自己流ですが、それなりに弾いていたように思います(クオリティは???ですが)。

小学校の時から作文や詩は得意な方でした。中学校の国語教師だった祖父と父の遺伝子のおかげなのだと思います。中2になって初恋の相手と文通(昭和だな-!)できるようになり、さらに文章力が上がったような気がします。上述のミュージシャンの詞を手紙に引用したりすることも多かったのですが、まだオリジナルの作詞はできませんでした。「他人に聴いてもらうため」の初めての作曲は、恋愛とは関係なくて(笑)以下のような経緯でした。

中3の時に「クラスの歌を作り、全校音楽会で発表する」という企画が学校から与えられました。替え歌の想定でまず作詞を公募したのですが、採用された詞が非常に個性的だったため、僕が作曲することに、というよりは、勝手に作曲したような流れだったと思います。反対意見もありつつ、何となく採用されました。クラスには、例の作曲コンクールで毎年特選になる女の子もいたのですが、彼女がエレクトーンで編曲してくれ、本番では作曲者として指揮をさせてもらいました。

この歌は今でも思い出せるのですが、自分が歌うには不適切だと思うので、封印しています。もしかしたら、ライブの余興などで披露できるかも知れませんね。当時の音源や映像、残っていたらいいのになーと思う次第です。

それにしても、そろそろ高校受験だという3学期にこのような音楽会をやったり、その2-3ヶ月前には文化祭をやったり、田舎だけに本当にのんびりしていたと思います。クラブ活動の軟式テニス部は夏休みで終了していましたが、その後、陸上競技大会や駅伝の練習は続いていましたし、しょっちゅう手紙を書いていましたし、いつ勉強したのだろうと・・・ああ、ただその文通は中3の2学期にフラれて終焉になったのでした。

中3になると、あんな田舎でも模擬テストや地区内での学力を測定するための共通テストみたいなものが定期的に行われていました。僕の成績のピークは中学3年生の1学期で、その後、失恋でメンタルがやられて急降下しました。というよりは、今から思うとテスト本番でもやる気が出ず、全力を出してなかったのだと思うのですが。

また話が横道へ逸れました。そのようなメンタルの中、2学期の文化祭で初めてギター弾き語りをする事になりました。クラスの中でギターに興味のある友人が何人かいて、ギターを弾ける僕がリスペクトされ、教えを請われたという流れから、市民権を得たように思います。歌好きの友達を誘って、中島みゆきの「世情」を歌いました。ご存知の方も多いと思いますが、武田鉄矢さんが主演していたテレビドラマ「3年B組金八先生」で流れてブレークした曲です。校内暴力が問題化していた当時の世相を反映していますね。

そして3学期の音楽会では単独ステージへ、というほど格好の良いものではない事が写真からわかります。譜面台の代わりに逆さ椅子、リズムを足でとるとマイクはガタガタ、というトンデモない状況で、歌った曲は、さだまさしの「神話」。選曲が精神状態を示していると言わざるを得ませんが、伴奏は完全コピー(のつもり)でした。当然ながら、歌った後は会場が凍っていました(笑)。

以上が中学校までの音楽ルーツの解説になります。エピローグ的に、高校入試の話をしますと、失恋した相手を振り切るべく、鉄道で2時間近くかかる県庁所在地のハイレベル校を目指すことに決め、やっと勉強に打ち込むようになりました。入試当日、母は付き添ってくれましたが、教室内は知り合いがいないひとりぼっちの高校受験で、これまでの人生を振り返っても一二を争う大きな試練だったと思います。

では、医学部受験はどうだったんだ?と言われそうですが、僕が入ったクラスの半分以上が医学部へ進学する状況、といえば納得いただけるかと思います。

今日も読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(2)小学校~中学校編 その1

プライベートなお話にお付き合いいただき、ありがとうございます。今日もよろしくお願いします。

最近は、中学受験なるものが市民権を得ているようですが、昭和50年代の地元(徳島県)には、受験すべき中学校は私立1校しかなく、超虚弱体質だった自分には2時間近くかけて電車通学とか下宿するとかいう選択肢は皆無でしたので、持ち上がりで地元の中学校へ入学しました。9割方の生徒は同じ小学校からの持ち上がりでした。

入学前の冬休み(新年明けてから)、ほぼ突然に母が「ギターを買っても良い」と言ったので、父と町の楽器屋さんへ行き、YAMAHAのラインアップで一番高かったクラッシックギターを買ってもらいました。C-400だったか、4万円でした。実はその隣には5万円のアコギL-5があったのを覚えていて、あれを買っていれば音楽人生多少違ったかも・・・とか思ったりしますが、当時は子どもながらに、その1万円の差をとても気にしていました。

その時に、楽譜も必要、ということで、店の人に勧められるまま「風」の大久保一久さんの楽譜を買ったのを覚えています。結局、その後すぐに、さだまさしの楽譜を入手する事になりましたが・・・。一応、選んだのがクラッシックギターであることは認識していて、コードをジャカジャカ弾くよりは、今でいう「フィンガースタイル」に憧れていたのでしょう。あと、音楽コンプレックス(小学校編を参照)のために、どうせやるならクラッシック音楽をしっかり練習しよう、などと思っていたようです。

お小遣いをはたいて「芸音ギターアカデミー」という会社の通信教育(クラッシック)も申し込んだのですが、当然のごとく早期に挫折し、結局ギターも自己流で練習していく事になりました。その時に参考にしたのが、上述のさだまさしの楽譜と、兄が録音してくれたカセットテープでした。1979年は「関白宣言」が売れた年でしたが、例の年末のNHKホールコンサートでは「防人の詩」を初披露していました。シンプルな8ビートアルペジオ、歌は3番まで3分ほどの演奏でしたが、それが僕の心に深く刺さると同時に、ああ、ギター伴奏ってこうやって弾くんだ、という悟りを与えてくれました。

コードはEmが好きでした(笑)。だってアルペジオだと左手を使わなくて良いので。なので、一番最初に練習した曲は「惜春」。上記「防人の詩」もEmでコピーして歌っていました。家の中では恥ずかしいので、ストロークはほとんど練習しなかったです。そのくせ、アルペジオの1音1音はすごく力を入れて強い音を出すようにしていました。良いも悪いも、それが今の演奏スタイルに繋がっているかなと思います。構えは左大腿にギターを乗せるクラッシックスタイルを、高校生まで貫いていました。ちなみに、当時YAMAHAポータサウンドという小さなキーボードが家にあって、リズムに乗せて指1-2本でコードが弾けるので、「檸檬」や「無縁坂」を弾いていました(やはりマイナーコードが好き)。指使いは自己流なのですが、コードの響きを実感するには役立ちました。

さて、中学校へ入学して、女性の音楽の先生が担任になりました。最初の音楽の授業で、自己紹介がてら好きな歌を歌う、という事になり、学校教材の歌集にあった「精霊流し」を歌いました。当時はボーイソプラノの名残があり、キンキン声で歌った記憶があるのですが、そのうち、変声期の壁にぶち当たります。その担任の先生が腹式呼吸を教えてくれたのですが、マスターする前に(一学期だけで)結婚退職されてしまいました。その後、音楽で歌の指導を受ける事はなく、変声期が進むにつれ、さだまさしの音域を出すことすら辛くなっていきました。それでも顎を突き出したり、ファルセットに逃げてみたり、自分なりに発声を工夫していた記憶はあります。ボーカル教室の歌川先生曰く、そういう工夫は現在の歌に絶対に役立っている、のだそうです。

一方、相変わらず年一回の作曲コンクールに志願して出ていました。中学になると一カ所に集められて、課題の詞を与えられ、制限時間内に作曲する方式でした。当時は鍵盤で作曲していたのですが、他校の同級生がギターを持ち出したのをみて、負けずとギターを持ってきたのを覚えています。その時、ああ、ギターでも作曲できるんだ、と実感しました。当時、郡大会で特選が3名くらい選ばれ、県大会にはそのうちの1名が推薦として行けたようですが、僕は入選まででした。学年でピアノが一番上手な女の子が毎年特選で、やっぱり正式に音楽を習っていないことの劣等感で鬱々としていました。ちなみに6歳下だった妹は3歳からピアノを習い、同じ大会で県3位になり、自分の仮説を裏付けてくれました(笑)。

クラブ活動は運動音痴を解消しようと軟式テニス部に所属しましたが、一生懸命練習する割にはうまくならず、3年間補欠でした(下の学年にも抜かれたという事ですが、1つ下のチームは県大会で優勝したので、さもありなん、というところです)。一方、体力はついて長距離をまずまずの速度で走れるようになり、陸上部のない中学校で合同チームの選手に選ばれるようになりました。まったく音楽と無関係ですが、3年生の時にBチームとして郡の駅伝大会に出場し、当時他校の1年生だったK君(後のボクシングWBC世界スーパーフライ級チャンピオン)と同区間を走って、一応タイムは勝っていました(スポーツネタでは唯一の自慢です:笑)。写真を見ると、こんなヨレヨレでよく走ったなとは思いますね。その後も、高校大学を通じてほぼ毎日走っていたので、体力的には歌にも良い影響を与えたのかな、と思います。

スポーツ以外で、今の自分の音楽に良い影響を与えているものとして「科学体験発表」というイベントに思い当たります。夏休みの自由研究の発表ですが、これも上記の作曲コンクールと同じで、郡大会で1位になると県大会へ行けます。小学校6年生と中学校1年生で連続出場しました。写真は小学校6年生の時の「アゲハチョウの成長記録」ですが、ポスターが主流だった当時に、併せて最先端のスライドプレゼンをしていたのは自分でも驚きで、アイデアを出してくれた父親には感謝しています。小さい頃から、大衆の面前で発表する事には慣れている、というのは、音楽演奏の上でも大きなアドバンテージなのかな、と思っています。当然のことながら、本職の学会発表や学術講演なども同様です。

1979年 徳島市での科学体験発表会 左のスライドスクリーンに蝶の写真を映す 投影機を操作するのが父

完全に音楽から脱線してしまったので、今日はここまでと致します。読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(1)小学校編

ブログの最初の記事として、自分の音楽のルーツを書くべきだと考えました。おそらく長い話になりますが、お付き合い下さいませ。

まずは身体的要素から。アレルギー体質で、幼児期から鼻炎と喘息がひどかったのですが、咽喉頭を含む気道の形状や肺活量の増加という身体的要素に繋がっているように思います。肺活量は高校一年生の時に5,000ccあり、喘息発作で代償的に胸腔が大きくなったのでしょう。気道の形状は、自分で観察できないので何とも言えませんが、現在もかなりの高音(D音)が発声できるのは、それも関係しているかも知れないと、ボーカル教室の歌川和彦先生(サムガイズ・ミュージック https://someguysmusic.com/)に指摘されました。

一方、社会的要素です。幼児期は完全に虚弱体質であり、幼稚園や学校も年に何十日も休む状況で、ピアノなどが習える状況ではありませんでした。母が小学校の音楽教師(ただし教育学部卒)でしたが、本格的に教えてもらった事はなく、家にあった電子オルガンを自己流で弾いていただけです。義務教育以外で正式に音楽を習っていないのが、現在まで続く音楽分野の劣等感に繋がっています。

学校を休みがちなので、運動神経が発達する筈もなく、歌を歌う機会も少なく、小学校低学年の頃は鼻歌以上のパフォーマンスの記憶はありません(笑)。田舎のためテレビも民放1局のみで、音楽のインプットはNHKのど自慢とアニソン(特撮含む)限定でした。叔父がアニメや特撮のソノシート(レコード盤)を兄と僕に買ってきてくれて、主にはそれを聴いていました。

小学校3年生頃、やっと人並みに登校できるようになり、学校生活でも積極性が出てきた記憶があります。音楽関係では、年次の音楽会で打楽器(小太鼓)を好んで演奏しました。母の勧めで「作曲コンクール」なるものに応募し、8小節程度のものを授業の音楽知識の範囲で作っていました。母推薦で学校代表になり、何かの賞はいただいていたと記憶しています。一方、学校の授業で詩を作る事を学び、まずまず頑張っていたようです。「とび箱がとべた」という詩が地方の新聞に掲載された記憶があります(注:3年生まで全然とべませんでした)。

小学校4年生頃から、歌でしっかり発声するとボーイソプラノになる事を発見し、音楽の時間に目立ち始め、人前で歌わされる機会が増えました。小学校5年生頃から喘息発作が出なくなり、体力もついてきました(運動神経は相変わらずですが)。小学校6年生の時に、近所の婦人会の推薦で、町のチャリティーショー「ちびっ子のど自慢」に出演しました。写真はその時のものです。まだ歌謡曲を知らず、母の勧めのままにペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」を歌いました。

写真からわかると思いますが、極度に顎を上げて歌う癖がありました。医師として推察するには、当時は極度の扁桃肥大があったため、気道を開くためにこの角度が必要だったのだと思います。また、この方が高音も出やすかったと記憶しています。一方、鼻炎は続いていて滑舌も悪く、100%胸式呼吸で肺活量任せに歌っていたと思います。これらの癖を直すのに数十年の歳月を要しました。

当時の周囲の音楽世界は、高校1年生だった兄が「甲斐バンド」を聴き始め、歌謡曲が音楽としてインプットされるようになりました。静かな音楽が好きな僕のために、兄は「さだまさし」の歌をカセットテープに録音してくれました。1979年末のNHKホールでのコンサートだったと記憶していますが、何十回も聴いて、さださん特有のMCを一言一句記憶していた事を覚えています。メンバー紹介の「ギター、坂元昭二!」という声まで覚えていますが、まさかその後自分が坂元昭二先生に師事し、CDを出すなんて夢にも思いませんでした(当然、当時はCDなんかなかったですしね:笑)。

この頃、やはり母の勧めで初めてギターを手にする事になるのですが、その話は中学校編に譲る事にします。

長文、読んでいただきまして、ありがとうございました。