音楽ルーツの考察(19)高校編 その16

校誌「葦芽(あしかび)」編集部は、生徒会執行部、図書館の仲間達、写真部、美術部、文芸部、等の部員をかなりの重複をもって包含する大所帯です。写真、絵、文章、社会情報を必要とする活動ですから、当然ですね。

編集部の部屋は校舎(中校舎から2階渡り廊下を渡った南校舎)の一角にありました。毎日開いていて、昼休みや放課後にかかわらず、好きなときに立ち寄っていました。関係の先生方や先輩後輩を含め、色々な人生相談が飛び交う場所で、人格形成にも大きく影響しました。

フォークサークル同好会の練習が隣の視聴覚室だったので、質屋で5,000円で購入したギターを置かせてもらっていました(実は、店に入る勇気がなく、佐々木君に頼んで購入してもらったものです)。編集部の閑散期には中で弾いたりもしていました。

とても大切な場所でしたが、その後の新校舎への建て替えにより、今は帰りたくても帰れない場所になってしまいました。

編集部はこんな雰囲気でした。左の写真は以前にも出した自分の卒業式の日のものです。右の絵は1年後輩のI君がイラストにしたものです。I君は現在も大手新聞社で記者をしており、当時の経験が活きているなと感じる次第です。

徳島市立高校が2013年で50周年を迎え、創立50周年記念誌が刊行されましたが、リファレンス資料としての「葦芽(あしかび)」の存在により、非常に充実した内容になっていました。その記念誌のページですが、歴代の「葦芽(あしかび)」の表紙が並べられています。僕は、このうち23号と24号の編集に携わったわけです。

この年の冬に撮ったと思われる写真が残っていました。前年に市高を退職された先生を訪問して記事にする企画で、郷土歴史家(高校の歴史の先生は独自の研究もされていました)のM先生のご実家を訪ねた時のものです。ちょうどクリスマスで、M先生はサンタクロースに扮し、近所の子ども達も立ち寄っていました。

このようなフィールドワークの経験が、いろいろな人と関わりながらプロジェクトを進めるという、後の自分の行動規範に影響したかも知れないと思わないではありません。

少なくともこのような学校関連活動の時間の中で、男女を問わずいろいろな人とお話しし、傷ついた気持ちも少しずつ癒やされていったのだろうと、今思い返しても、ありがたい思いでいっぱいになります。

今日も読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(17)高校編 その14

高2の2学期(前半:市高祭)

9月15日、遂に市高祭の当日となりました。以前にも紹介した通り、前夜祭、文化祭、体育祭と3日連続で行われます。僕は、前夜祭のトップバッターとしてステージに上がりました。この日のために作詞作曲した「17歳になった君へ贈る」という歌から始めて、全5曲を歌いきりました。大勢の前で複数曲を独唱するのは、これが初めての経験になりました。

記念すべきこの日のセットリスト(記憶不十分)
17歳になった君へ贈る → 君は天然色 → 黒い瞳のナタリー(スペイン語) → しあわせについて

5曲歌った筈なのですが、何故か4曲しか思い出せません。「17歳になった君へ贈る」の後半の歌詞でオリジナルだとバレて会場が騒然となった事(笑)とか、「しあわせについて」のカポを付け忘れて歌い始めてしまった事とか、細かい事はとてもよく覚えているのですが・・・。ちなみに、この日は9月15日、Cさんの誕生日が9月14日だったので、完全に確信犯でした。

そして、文化祭実行委員長として迎えた2日目の文化祭。何故かまったく写真が残っておらず、さすがに委員長の仕事が忙しかったのかな、と思い返してみても、本当に思い出せないのです。モノクロ写真は当時の地方新聞の切り抜き、カラー写真は1年後のものだと思いますが、雰囲気を感じていただけたらと思います。

以下のプログラムによれば、フォークサークル同好会(あしかびフォークサークル)として“Let’s sing our songs”というテーマでライブハウスを行ったのは確かなのですが、これも誰が何を歌ったのか、ほとんど覚えていないのです。今でいう「オープンマイク」に近い状態で、誰でも良いから歌える人を引き込んで、という何でもアリの運営だったと思います。

また、クラス(211HR)ではバザーとしてホットケーキ屋も開店していて、これも事前準備ではメニューの絵などを描いて好評を得ていたのですが、当日の当番からは外してもらっていたと思います。Cさんの事もあり、クラス活動からは距離を置きたかったという心理があるのかも知れないな、と今になって思います。

そして3日目の体育祭、大旗は「風の谷のナウシカ」でした。昨年同様、クラスメートのN君が指揮して完成させました。クラスのゼッケン「II-XI」というローマ数字が見えますが、これは僕がデザインして作った記憶があります。自分が写っている写真は少ないのですが、そうでない(自分が撮影した)写真も一枚一枚に歴史が刻まれていて、頑張っていろいろやっていたなあ、と感慨深いものがあります。

この年もクラス代表で1500メートルに出ました。一年前の失敗を繰り返さないよう、と思っていたのですが、さすがに前2日間の疲れがあったのでしょう。後半失速して7位に終わったと記憶しています。お昼の応援合戦は、マイケル・ジャクソンの「Thriller」をバックに思い思いのコスチュームで踊るスタイルでした(この写真は残っていますが、問題が多すぎて掲載できません:笑)。審査では「統一感がない」という理由で最低点数を付けられてしまったようです。

体育祭が終わった後、自然発生的かつ多発的に人の輪が出来て、俗称「ワッショイ暴動」という現象がよく起こっていました。これも市高名物なのですが、時に制御不能となるので生徒会としては問題視されていました(よって僕は参加しませんでした)。市高祭実行委員会OBとしてこの解決策を提示するのには、あと1年の歳月を要しますが、それはその時にまたお話しします。

本稿の最後に、当時の校誌「葦芽(あしかび)」に掲載された文化祭実行委員長としての作文を掲載しておきます。なんだか、ものすごい上から目線の文章で、今更ながら、スミマセン・・・。

今日も読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(16)高校編 その13

高2の夏休み

文化祭実行委員長として高校生活ハイライトの市高祭を迎える夏休み、7月中はまだ補習があって毎日登校していました。全国高校野球も池田高校からPL学園に覇権が移っており、今ひとつ盛り上がらない夏という印象でした。

7月最終日の31日、中体育館にてフォーク&ロックのオーディションが開催されました。今年は、僕と佐々木雅浩君は各々別々にオーディションを受け、おそらく1枠しかないフォーク枠を争う事になりました。本当に記憶が曖昧なのですが、僕の選曲は中学時代から進歩なく、さだまさしの「神話」でした。当時の心境から選んだ曲ですが、結果的には演奏技術も成熟していた事が幸いし、合格となりました。フォーク&ロックはフォーク先行のため、自分の演奏で前夜祭のオープニングを飾ることが決定しました。

そして8月に入り、市高祭の準備が本格化していく訳ですが、よりによってこの時期に、さらに忙しくなるような予定を入れてしまっていました。

高1の秋頃から、文化放送の旺文社大学受験ラジオ講座なるものを聴講していました。ウィークデーは朝5時から30分一コマの1時間、週末は夕方に再放送があったと記憶しています。ブラームス作曲の「大学祝典序曲」がテーマ曲でした(これは1年後の話の伏線になります)。各教科、個性も強い、色々な講師の先生が熱い講義をして下さるので、毎日とは言えないものの、頑張って聴講しました。

そのラジオ講座の講師陣を招いて、毎年夏休みに、長野県の栂池高原で「旺文社栂池サマースクール」なるものが開催されており、クラスメートの数名と一緒に参加する計画を練っていたのです。もちろん、対象は高3生ですが、高3になるとこのようなリゾート体験は気が引けるので、今のうちに行こう、というのが思惑でした。結論、他のクラスメートは最終的にキャンセル、僕だけが参加することになりました。

勉強しているところの写真はなく、リゾートっぽい写真ばかりなので、「何しに行った?」と言われるのがオチですが、ここで(今考えても)ものすごい偶然が起こります。

勉強に疲れた3日目か4日目は、午後から夜まで休講で、その夜に「コンサート」が予定されていました。誰が来て下さるのかは秘密でしたが、特設ステージに現れたのは何と「白鳥座」! ご存知、さだまさしの妹、佐田玲子さんの在籍したカルテットです。当時のメンバーは、高比良豊(ピアノ、ギター、ボーカル)、佐田玲子(ボーカル、ギター、キーボード)、阿部恵(ボーカル、キーボード)、土井晴人(ギター、ボーカル)の4名。

今では考えられない事ですが、リハーザルの合間に4人のメンバーと交流することができ、演奏直前まで草むらに座りつつ、何時間もお話しする事ができました。佐田玲子さんとの間では「お兄さんの『神話』で学園祭のオーディションに合格したんです」「えー、あんなクラい歌ー」とかいう会話も成立しました。

旺文社さんの計らいで、コンサート幕間のカラオケ大会にも出場させていただき、これまた一番手で「みちのくひとり旅」を歌いました。長野は「みちのく」ではないのですが・・・。

司会者さんとのやり取り、「手が震えていたようですが、緊張なさりました?」「いや、心を込めて歌うと手が震えるのです」「(爆笑)手を震わせながらの熱唱、白鳥座さんも見習うところが多かったのではないでしょうか?」なる言葉をいただき、子どもだった僕は、ウケた、認めてもらった、と素直に喜んでいたように記憶しています。

この他にも、グループに分かれてのハイキングや、最終日のバーベキューによる打ち上げなど、楽しい企画がいっぱいでとても満足しました。クラスメートのドタキャンにもかかわらず、長野まで行かせてくれた両親には感謝するしかありません(そういえば、この原稿を書いている今日は母の日です)。

今日も読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(15)高校編 その12

高2の1学期(後半)

修学旅行を終えると、中間考査やら実力テストやら、夏休みまでは勉学集中の時期になる筈なのですが、いまだに失恋の痛手を引きずっていた僕は、厭世観にさいなまれる日々を送っていたように思います。成績はクラスど真ん中からやや数名後退した感じでしたが、興味を失った数学が危機に陥っていました。それでも、必ず巻き返せる、と信じていたのは、若さゆえの自信過剰なのでしょう。

この頃の思い出は、七夕の笹飾りで、当時、各クラスの有志が笹を持ち寄ってベランダに掲げ、皆で短冊などを飾ります。ちょうど下宿の近くに笹を売っていたので、僕が持って行って、放課後に友人達と吉野川に流したことを記憶しています。ちょうどこの年は、ロサンゼルスオリンピックの年だったこともあり、このようなお願いをしていました。とても微笑ましいですね(自嘲)。

図書館の他にも色々と居場所探しをしていたようで、友人の佐々木雅浩君と一緒に「フォークサークル同好会」に入部して、週1回のミーティング兼練習に参加していました。クラスメートのS野君は1年生の時から入部していたようですが基本的に幽霊部員でした。当時の女性部長から引き継いで部長となり、市高祭でのライブハウス復活を目指していたところ、1年生も数名入部し、長渕剛ファンの同級生達も時々遊びに来て、活況となっていきました。

一方、佐々木雅浩君は当時休部だった「ジャーナル同好会」を復活させ、7月20日には「市高通信」を完成させていました。彼もまた自分の居場所と存在意義を模索していたのだろうと思います。

生徒会は二期制で、前期選挙に自発的な立候補者が存在せず、全クラスの委員長級で構成される協議委員会の中から秀才の呼び声の高い委員長と副委員長(クラスメート)が立ち、信任投票で生徒会長と副会長が決定しました。僕は、書記から会計へ役職変更となりました。この執行部の元、6月下旬に第22回市高祭の実行委員会が組織され、経緯はよく覚えていませんが、僕が文化祭実行委員長に任命されてしまいました。事の重大さをよく理解しないままに、お祭り騒ぎに没頭していったように思います。

文化祭では飲食を含めたバザールがあり通常は3年生が独占するところ、(別に僕が権力を行使した訳ではないのですが)僕らのクラスが1枠取り、ホットケーキ屋さんをやる事になりました。そういえば、文化祭実行委員長の仕事として、学校代表で徳島市の保健所に行って指導を受け、バザール実施の許可をもらってきた記憶があります。

この時点から、市高祭実行委員会の1メンバー、文化祭実行委員長、クラスのバザールおよび大旗小旗の準備、フォークサークル同好会のライブハウス準備、フォーク&ロックのオーディション受審の準備、と並行して進めていく事になりました。まったく、膨大な業務をどうやって裁いていたのか、まったく覚えていませんが、自分としては失恋を引きずっている現状を忘れるべく、心と頭の隙間を埋めていたのでしょう。

そしてまたまた1日8時間の自主学習を是とする夏休みに突入するわけです。信じがたい事ですが、この多忙な夏休みの間に、僕の音楽ルーツとして語るべき貴重な体験をいくつか経ていくことになります。それはまた次回のお楽しみに。

今日も読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(14)高校編 その11

高2の1学期(前半)

過酷な高1の1年間を終え、無事に2年生に進級することになりました。

いわゆる「ヨリを戻す」可能性なんてないとわかっていながら、心の中ではCさんにこだわりつつ日記を書き続けていました。前の記事にも書いた通り、図書室カウンター内の司書室に生徒会や写真部の先輩がいらしたので、昼休みはそこへ逃げ込んでいました。司書室では飲食も黙認されていたのでお弁当を持って行きましたが、ほぼ神経性食欲不振の状態だったので、常時空腹のガタイの良い先輩に食べてもらっていました。

僕の失恋が、学校内でどこまで噂だったかはわかりませんが、自覚する以上に知られていたと思います。だから、他人に自分の恋バナをする事にもまったく抵抗がありませんでした。そのうちに、新1年生が出没するようになり、生徒会活動をしている理数科の先輩から「私の妹分」といって、Kさんを紹介されました。とても明るく外向的な性格の女性で、中学時代からの彼氏もちゃんといるとお話ししてくれました。お返しではないのですが、僕も自分の恋バナをして差し上げました(笑)。その後もほとんど毎日会うので、時々お手紙をくれるようになり、中学以来の文通を楽しむ日々が始まりました。それは当時の僕にとっては本当に救いだったと思います。

さて、市高は5月に校外行事があります。1年生は淡路島の宿泊研修、2年生は東京方面への修学旅行、3年生は眉山への遠足です。ちょうど下宿に、東京の浪人生活の後に徳島大学医学部へ進学された先輩が入ってこられたので、東京でのグループ行動(自由研修)のプランを教わったりしながら、真面目かつ入念に準備をしました。不真面目な輩は、新宿歌舞伎町とか、原宿でタケノコ族に混じって踊るとか、渋谷の109とか、色々話していましたが、僕らのグループはメンバーが超アカデミック(笑)だった事もあり、皇居を外回りで一周して、有楽町、霞ヶ関、秋葉原、本郷(東京大学)、上野公園等を訪問するプランでした。

記憶は非常に曖昧なので、例によって校誌「葦芽(あしかび)」の記録に頼ります。この号(1985年発行第23号)の編集から自分自身も関わっていて、随所に僕のイラストやレタリングが掲載されているので、それもご覧下さい。

僕らの学年は11クラスだったので、旅行は2団に分かれて、それぞれ別の旅行会社のスケジュールになりました。僕らは第2団の5月8日出発でした。第1日は徳島駅前集合で徳島港からフェリーで東神戸港へ渡り、名神・東名高速をバスで走ってトヨタ自動車工場へ訪問、竹島宿泊、第2日は白糸の滝、富士山と移動し、河口湖宿泊、第3日は中央高速を通って東京タワー、そして新設されたばかりの東京ディズニーランドへ! 第4日目は自由研修、第5日目は新幹線で新大阪まで移動して、あとは往路と同じフェリーで帰る、というプランでした。今から見直しても、ワクワクしますね(笑)!

校誌「葦芽(あしかび)」からの切り抜きですが、第1団、第2団とも、出発時のトキメキと、トヨタ自動車工場の広報戦略(?)の巧さが読み取れる記事です。太いペンで書いたバスと3人の人物は僕のイラストですね。バスガイドさんのイラストのモデルは上述のKさんです。

白糸の滝や富士山も感動しましたが、思い出としては、白糸の滝で昼食のお弁当を食べていた時、クラスメートが「あの女の子の写真を撮って欲しい」と依頼してきたので、苦労して遠くから撮影したことでしょうか。高校生あるあるの話ですが、今だとコンプライアンスギリギリかも知れません。

やはりハイライトはディズニーランドでしたね。その年にできたばかりでしたし、何もかもが「夢の世界」でした(笑)。カップルの写真も微笑ましい限りですが、Cさんとの仲が続いていれば、もっと楽しい修学旅行だったのかな、と思わざるを得ません(修学旅行のみならず、人生まったく違うものだった可能性もありますが・・・)。

そして、アトラクションの中で最も衝撃的だったのはご存知「スペース・マウンテン」です。「葦芽(あしかび)」にもコーナーが設けられた位、生徒ほぼ全員が乗ったようでした。真ん中の「SPACE☆MOUNTAIN」の文字は僕の手書きです。

その次の日の東京自由研修は、とにかく歩きました。でもあまり良い写真がなく、かつ自分の写っている写真もほとんどありません。非常にアカデミックなメンバーだったため、僕しかカメラを持っていなかったようです。唯一写っているのが下の写真で、上野公園にある野口英世先生の銅像の下に立ったのですが、なんと銅像の足しか写っていません(爆笑)。いやはや、本当にアカデミックなメンバーだったな、と。

そんなこんなで、楽しい修学旅行の思い出の断片を掘り起こすことができました。読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(13)高校編 その10

高1の3学期

下宿のあった地域には、徳島大学常三島(じょうさんじま)キャンパス、徳島大学教育学部附属小学校・中学校(当時)、徳島中学校、助任(すけとう)小学校などがあり、学術的な雰囲気がありました。その地域から真東に海へ向かって3kmまっすぐ進むと、最後に沖洲川の橋を渡って市高へ到着します。冬になると、自転車通学者には厳しい海風となりますが、約15分の道のりを毎日自転車で通っていました。

僕とCさんは、沖洲川の少し手前にある交差点、エミールという本屋さんの前で待ち合わせて一緒に通学していましたが、Cさんが遅れてくることが多くなり、立ち往生しているところをみんなに目撃されるという毎日が続くようになりました。そのうち、時にすっぽかしを食らう朝も出てきました。それでも、放課後は一緒に帰るわけですが・・・。

十代の頃はあるあるだと思いますが、異性と何を話題にして話せばいいか、さすがのMackyもわかりませんでした。自転車で並んで走っていても、ほとんど口をきかずにCさんの住む地域の近くでお別れするような毎日になっていました。僕はそれでもうれしいと思っていたのですが、Cさんはそうではなかったようで・・・。

3学期、3年生は受験シーズンで忙しいのですが、2月上旬に毎年恒例の映画館での予餞会(映画鑑賞会)が開催されていました。この年は「戦場のメリークリスマス」、映画にあまり興味がない僕は、坂本龍一の音楽と北野武の出演しか認識していないのですが、生徒受けは良かったと思います。生徒会の仕事の一環で、僕は自転車置場の整理を仰せつかり、最初の1時間くらい、自転車をきれいに並べる作業をしました。その後、映画を観に行ったのですが、野営で焚火に照らされた北野武の顔を一瞬見ただけで、あとは待合室で実力テスト対策で百人一首を覚えたり、生徒会活動をしている上級生達と世間話をしたりしていました。

それから数日後、当時はとってもトキめいた2月14日、バレンタインデーを迎えます。それまでも、いわゆる義理チョコはもらっていましたが、その時は一応、自他共に認める交際相手がいた訳ですから、当然、大きな期待をもっていました(笑)。その日の朝の事は覚えていないのですが、その日の夕方、いつものようにCさんと一緒に帰っていて・・・珍しくCさんが話しかけるので、何かと思ったら、一緒の登下校をやめたい、と。

こういうの、天国から地獄へ突き落とされる、っていうんだと、生まれて初めて思いました。話した内容は覚えていませんが、つまり僕は「フラれた」とのだと認識しました。

しばらくは勉強も手につかず、ギターを弾いても悲しい曲ばかり、という状況で、本屋で「青春哀歌」と名の付いた日記帳を買ってきて、鬱々とした気持ちを吐き出していました。当時のCさんへの思いが綴られたその一冊の日記帳は、長年手元にありましたが、15年後の海外留学を機に捨てたと記憶しています。この写真には、その「青春哀歌」と写真立てに入れたCさんの写真の一部が写っています。

日記帳には散文を書いていましたが、もちろん、詩作も並行していて、詩についてはノートの切れ端やルーズリーフに走り書きしていました。それまでは、親友の佐々木雅浩君が作った詩に勝手に作曲する事が多かったのですが、その頃から、自分で曲を付けるための作詞を試みるようになりました。そう考えると、この失恋が作詞家Mackyの誕生につながったのかなと思います。

そんなこんなで、真面目な勉強時間はめっきり減ったにもかかわらず、それなりに成績をキープしており、失恋を心配(?)していた担任も安心しておられたようです。しかし、心の傷は深かったようで、教室以外の居場所を求め、休み時間は図書室などに逃げ込むようになっていました。

また、生徒会活動なども気持ちをそらすのには良かったようで、毎年3月下旬にあるオーケストラ部の定期演奏会でも会場整備係などを仰せつかりました。演奏中に舞台に近いドアを開けないようにお客を誘導する係でしたが、演奏会の間中、何時間も暗いドアの外に立っていました。他クラスの女子グループに「ねぇ、そんなところに立ってないで、どっか(夜の街へ)遊びに行こうよ」と強く誘われて、内心はちょっとうれしかったのに「生徒会の仕事だから」とお断りしたのをはっきりと覚えています。真面目だったんだか、失恋を引きずっていたんだか、今となっては思い出せません。

そうして昭和58年度(1983年度)が終わり、季節は春に向かっていきます。読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(12)高校編 その9

高1の2学期(後半)

満開の桜も散り始め・・・の頃に、秋が深まる話になって恐縮です。高1の2学期というのは、本当に色々なことがあったように思います。話が前後していくかも知れませんが、ご容赦下さい。

市高祭が終わり、再び学業に没頭しなければならない時期なのですが、その反面、学校行事の色々な事に首を突っ込んでいたように思います。例えば、この写真は、明らかに市高祭の反省会で、服装からも9月頃と予想されます。司会をしているのは当時の生徒会長で、写真の左側、席の後方で両腕をカバンに載せて偉そうに聞いているのが僕なのは間違いありません。当時、既に生徒会の活動にも参加していたようです。

その後、秋に生徒会選挙があって、選挙には出ませんでしたが、新執行部で書記を拝命し、色々な活動に参加していく事になります。校誌「葦芽(あしかび)」の生徒総会の記事を一番下に転載しますが、その年12月の生徒総会でも書記を担当していた事が確認できます。小さい字ですが議事録が読み取れます。自由な校風で有名な高校でしたが、ここまで生徒自治が発達していたとは、今更ながら驚きです。

ここでこれから語る「事件」における、女性の登場人物を整理します(笑)。まずは、前回(高校編8)の記事で登場したAさん、僕に好意を持ってくれているという他クラスの美人さんです。そして、前々回(高校編7)の記事で登場(お寺のセミナーの肝試しでご一緒)したクラスメートのCさん、それから、その二人と仲良しのクラスメートのBさんがキーパーソンになります。

僕とBさんを含む何名かのクラスメートは、朝登校するのが早く、始業前30分くらいには教室にいて勉強しているのが常でした。10月のある朝、Bさんにベランダに呼び出され、以下のようなお話をされました。

「CさんがMackyくんとお付き合いをしたいと言っている。Aさんの事は私達も知っているから、決めるのはMakcyくんだけど、もしOKだったらCさんに話してあげて。」(注:当時はMacky君というあだ名ではありません)

こういう場合、クラスメートであることと、話をしたことがある、というのが強みだと思いましたね。あまり迷うことなく、お付き合いする旨、Cさんに伝えました。お付き合いする、と言っても、基本的に登下校を一緒にするだけ、でした。一度だけのデートは、今は閉店してしまった「徳島そごう」。マフラーを編んでくれるとのことで、二人で毛糸を選び、1階のロッテリアでお茶をしました。選んだ毛糸の色は白、予想よりとても早く仕上がってきたのを覚えています。

そのデートの日は、壊れていたカメラが直っていたので、Cさんの写真も少しだけ撮影しました(今はもう残っていませんが)。同時期に撮影した風景を2つほど載せておきます。場所は、徳島城趾の周りにある徳島公園で、この辺りを通って下宿から駅へ移動していました。デートの帰りもこんな風景を見ながら帰った記憶がありますし、ひょっとしたら、本当にその帰りに撮影した写真かも知れません。

2学期の間は、Cさんと一緒に登下校をすることだけで、うれしかったのを覚えています。そのうち、全校に知れ渡ることになり、Aさんが冗談っぽくCさんとBさんを責めているような光景にも出くわしましたが、仕方ないなとスルーしていました。Cさんは朝が遅く、しばしば待ち合わせ場所で立ち往生していましたが、その時間も含め、大切な時間だったと思います。

女子の家庭科の授業でケーキを焼くので食べて欲しいと言われ、楽しみに待っていたら、置いていたケーキに誰かが座ってしまい、食べられなかったこととか、クリスマス・プレゼントとして、電子オルゴールを組み込んだ木箱を作って、フタの裏側に「Merry Christmas」と彫るつもりで「Marry Christmas」と彫ってしまったこと、など、何かうまくかみ合っていなかったのかも知れませんが、良い思い出です。ちなみに、Cさんはクラスでも英語はトップだったので、スペルミスは、今思い出しても赤面しそうです。

寒さが厳しくなっても、心は温かく、高1の2学期は過ぎていきました。生徒会活動もあったと思うのですが、成績もクラスの真ん中辺りで安定していました。ただ、この頃から、ずっと自慢だった視力が悪くなり始めます。冬休みは里帰りをして、平和に過ごしていたつもりでしたが、今になって思えば、休み中にデートの約束とか、していれば良かったのかも、と思わないではありません。

そうして昭和58年(1983年)が過ぎていきました。今日も読んで下さって、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(11)高校編 その8

高1の2学期(前半)

しばらくご無沙汰しました。どの業種でもそうですが、年度の替わり目は忙しいものですね。

2学期の事を書き始めようと思ったのですが、少し遡った話をしておく必要があります。1学期の期末テストが終わると、夏休み前の短縮授業+補習が数日続き、終業式前の2日間くらい球技大会になると思います。当時、競技としては、ソフトボールと卓球が相場だったように記憶しており、僕も活躍はしないまでも出場していたように思います。その当時は、我が理数科も体力が有り余っていて、学年優勝を含めいいセンを行っていたと記憶しています。

夏に向かって浮き足立つそのような季節に、さらに浮いた噂が飛んできました。他クラスのある女子(仮にAさんとしておきます)が、僕に好意を持ってくれていると・・・。それが「え?」っていうくらいに可愛い女子だったので、僕もまんざらな気持ちではなかったのですが、すれ違って会釈をする程度で何も進展する事なく時間が過ぎていました。クラスの友人達はとても面白がって、球技大会の合間に僕を担ぎ上げて、Aさんのいるところへ運んで行ったりするのですが、恥ずかしくて走って逃げ帰ることしかできず・・・今となっては良い思い出です。

そして、夏休み、市高祭の準備、と進み、2学期が始まり、あっという間に市高祭になりました。前夜祭は体育館での「フォーク・ロック」が目玉で、B君の長渕剛で幕を開けました。2日目の文化祭は、模擬店、文化系クラブの展示、体育館での舞台(ロック、新体操など含む)、他校の生徒にもオープンで、たくさんの人々で賑わいました。

1年生でクラブ所属もなかった僕は、ひたすら写真を撮ったりしていたのですが、後日フィルムを現像に出した際に何も写っておらず、カメラシャッターが壊れていた事が判明して、がっかりしました。そのため、この頃は自分で撮影した写真が何も残っていないのです。仕方がないので、校誌「葦芽(あしかび)」から拝借しました。

3日目の体育祭では「スター・ウォーズ ジェダイの帰還」の大旗の前に陣取り、チャゲ&飛鳥の小旗を持って入場行進をしました。競技は採点されますが、当時の記録によると、入場行進が11クラス中1位、応援合戦(学ランを着ての正統派)が11クラス中2位となっており、クラスの団結の強さを示していました。僕は1500メートルでクラス代表だったのですが、当日、あまりに気合いを入れすぎて、朝5時起きでアップなどしていたものですから、本番で失速して11人中8位に終わってしまいました。そのせいではないのですが、総合成績も11クラス中7位に沈んでしまったと記憶しています。

とにかく真面目な高校1年生だったので、学校をさぼって遊びに行ったり、校内で羽目を外したりすることもなく、浮いた話もその後進展する事もなく、9月29日には16歳となり、2学期は平和に過ぎて行きました。10月は旺文社全国模擬試験があり、我がクラスメートが全国1位を含む上位を席巻しました(この時は、大体クラス順位x2=徳島県の順位、徳島県の順位x2=全国順位)。僕自身もまぐれで成績優秀賞をもらってしまったものですから、高校生活を通じて精神的に最も安定していた時期だったと思います。

そんな平和な生活を脅かすのは、やはり「アノ手」の事件に違いないのですが、それは次回以降にお話しします。今日も読んでいただき、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(10)高校編 その7

高1の夏休み(後半)

お盆も明けた8月19日(頃だったと思いますが)理数科セミナーと銘打って四国霊場八十八カ所の第二十番札所である「鶴林寺」へ1泊2日の合宿へ行きました。賢明な読者の方は大丈夫だと思いますが、「つるりんじ」ではなく「かくりんじ」と読みます。

霊鷲山 宝珠院 鶴林寺
https://88shikokuhenro.jp/20kakurinji/

バスに揺られて1時間ほどの旅でしたが、到着するや否や、早速、数学の授業が始まり、訳のわからないまま教科書50ページくらい進んでしまいました(笑)。大部分のクラスメートは大丈夫そうでしたが、少なくとも僕には数学の教科書を「ただ読んだだけ」という印象でした。その後は対応する教材である数研出版の「スタンダード」なる問題集を先生がひたすら解いていた記憶がありますが、僕には解けませんでした・・・深刻な状況なのに、何故か危機感は薄かったです。

休み時間にプラスチックの野球セットを使って境内で野球をしたり、夜に花火大会をやった事が思い出に残っていますが、次の日、文化財のそばで花火をやった「罪」で、担任の先生が住職から喝を食らった時にはクラス全員凍り付きました。また、夜は男女分かれて「宿坊」の畳部屋での雑魚寝でしたが、ハウスダスト+ダニのアレルギーが出て、くしゃみが止まらなくなってしまい、部屋では眠れず、一人廊下で寝たことも、今はまあ良い思い出です。

さてさて、話は前後しますが、我々のクラスは男子31名、女子10名の計41名で構成されていました。当然のことながら、夏の夜の恒例といえば、花火大会と肝試し大会という事で、実現となりました。お寺ですから怖い場所には事欠かない訳です。男子の約10名がお化け役、残り男子20名がくじ引きで男女ペアになる(女子は2回参加)というルールでした。

このシチュエーションでトキメかない男子はいないと思うのですが(笑)、諸々の理由で半分冷静に、ちょこっとだけ期待してくじを引いた僕は、ちょこっとだけ気になっていた存在のCさんとペアになりました。

石段を登って上のお堂から何か紙を取って戻ってくる、ほんの数分間なのですが、まあ、道端にはお化け役で脅してくるクラス男子がたくさんいるし、八十八カ所のお寺に慣れきった自分(※)には怖さなど微塵もない時間でした。普段はあまり話さないCさんでしたが、静かすぎると雰囲気が微妙なので、頑張って他愛のない話をしたような記憶があります。

(※)地元美波町には第二十三番札所の「薬王寺」があり、小中学校の通学路上に位置しているので、毎日のように休憩場所にしていました。大晦日の紅白歌合戦が終わってから初詣に行く習慣でしたので、夜の境内を回るのには慣れていました。

日和佐浦(漁港側)から薬王寺を望む

医王山 無量寿院 薬王寺
https://88shikokuhenro.jp/23yakuoji/

読者の皆様の期待の大きさを感じ、先を急がないといけないところですが、色々な伏線が絡み合うため、今日はここまでとします。読んでいただき、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(9)高校編 その6

高1の夏休み(前半)

市高生活のハイライトは、夏休みが明けてすぐに行われる市高祭だと思います。徳島県の高校では最も早く行われる秋の文化祭行事で、土曜日の前夜祭、日曜日の文化祭、月曜日の体育祭、と3日連続で行われる事も有名です。3年生は、市高祭が終わってからは受験に専念できるように、という配慮からだと聞いていました。

進学校の常で、夏休みに入っても補習は続き、里帰りしたのは8月のお盆前後だけだったと思います。当時、徳島の高校野球といえば池田高校で、1983年の夏、夏春連覇をした後に桑田・清原のKKコンビとベスト4で対決します(つまり、僕は彼らと同じ歳です)。当然ながら、補習にラジオ持ち込みでしたが、1回早々に大荒れの試合展開となり、全員上の空で補習を聞いていました。あの頃は、日本全国、池田高校の負けを誰も予想できなかったくらい強かったのです。先生もわかっていたと思うのですが、僕は途中で指名されて、イヤホンを外すのに失敗してクラスの失笑を買いました。漫画みたいな光景ですが、それくらい自由でした。

夏休みに入ったばかりの頃、前夜祭と文化祭の舞台で行われる「フォーク・ロック」のオーディションが開催されました。これが、愛機 YAMAHA L-7Sの第2陣で、僕と佐々木雅浩君は「メロディII」というデュオグループで出演します。この時、フォークを選んだのは、他クラスの1年生のソロが2名のみ、あとはロックバンドばかりでした。おそらくフォークとして1枠を争う事になる中で、我々は鉄板の「精霊流し」を歌い、出来は悪くはなかったと思うのですが、結果的に長渕剛(ライブ・バージョンの「巡恋歌」を完全コピーで披露したB君)に負けました。彼の愛器はYAMAHAのL-6だったか?と思いますが、別の安いギターにヘビーゲージ(一番太い弦)を張って、1日3時間は練習する、という強者でした。

ちなみに、我々のユニット名は佐々木君の提案だったのですが、坂元昭二師匠と福留順一さんのフォーク・デュオから拝借したのは明らかで、当時は、こんな田舎の無名の高校生が名前を拝借したところで将来には何の影響もない、と思っていたのですが・・・。その後、メンバーの1人にギターを習い、もう1人が経営する酒場(東京中野にある「ゆらゆら」)で歌ったりする事になるとは、本当に人生はわからないものですね。当時の写真がないので、この2年後の「メロディII」の雄姿(笑)を載せておきます。

市高祭の体育祭で、クラスの陣地を飾る大旗と入場行進で使う小旗を、夏休み中に準備することも恒例でした。布が学校から配布され、クラスの机を端っこに寄せて、新聞紙を敷き詰めて、白い帆布を広げて絵の具で描いていきます。この年は、「スター・ウォーズ ジェダイの帰還」が話題だったので大旗に採用され、僕が提案したチャゲ&飛鳥のロゴマーク(https://www.lancers.jp/profile/hiromitsu-kohno/portfolio_popup/238043)が小旗に採用されました。

そんなこんなで夏休みは(1日8時間の自主学習を強いられつつも)平和に過ぎていきますが、同じ夏休みの後半には、自分の高校生活に影を落とす(笑)事件の伏線が忍び寄るとは、当時は想像だにしていませんでした。

今日も読んでいただき、ありがとうございました。