音楽ルーツの考察(8)高校編 その5

高1の1学期

当時の市高では、入学直後の5月中旬に2泊3日の集団宿泊研修があり、クラスや学年の親睦を深めることができました。当時は淡路島にある国立淡路青年の家が舞台でした(当時、すでに老朽化が進んでいましたが、今はどうなっているのでしょうか?)。

1日目のクラス対抗歌合戦と2日目のキャンプファイヤーの2つの機会で、それぞれクラスから出し物を企画せねばならず、4月早々から学級活動(Long Home Room: LHR)で話し合いを行っていました。いろいろな案がありましたが、結果として、クラス対抗歌合戦では我々3人がギター伴奏をしての合唱、キャンプファイヤーでは人間カラオケ(全パートを肉声で表現するインスト)をやる事になりました。合唱の曲は3曲(季節の中で、悪女、北酒場)、人間カラオケは2曲(BODY SPECIAL II、異邦人)でした。

その翌日から、ギターを持ち込んでの練習になりました。ショルダーストラップ付きとはいえ、ハードケースを抱えての自転車通学は異様に目立ったようで、通学路に立つ交通指導の先生達に必ず声を掛けられる始末でしたが、特に叱られたりはしませんでした。ギター練習というよりは、LHRでクラス全員いきなり練習、という感じでした。広い会場で音量重視のため、ストロークでの伴奏は前提で、3人ともそれぞれに個性が出たのを覚えています。僕は当時あまりストロークを練習していなかったので、シンコペーションを伴う8ビートのリズムがうまく取れず、少し苦労しました。休み時間にも、ギターでいろんな人と一緒に歌ったりしながら、友人も増えていって幸いでした。

宿泊研修本番の事は断片的にしか記憶がないのですが、幸い、写真はたくさん残っています。昨今の個人情報保護の観点から、公開は難しいのですが、ソフトボール大会と卓球大会があって、両方我々のクラスが優勝したとか、合唱は非常にうまくいったとか、砂浜での人間カラオケはさすがに音量不足だったとか、ハイキングの道のりとか、都会的な他クラスの女子生徒が眩しかった思い出とか、いろいろあります。写真は、宿泊室に入った直後だったと思いますが、早速ギターを取り出して弾いていました。横に松山千春の楽譜がありますね。愛機 YAMAHA L-7Sの初陣は、かようにたくさんの人目に触れる機会でもありました。

さて、淡路島から帰ると、本格的に勉強中心の毎日になっていきました。当時は土曜日も午前中授業があり、午後2時頃の汽車で故郷に帰り、翌日午後の汽車か父の車で下宿に帰ってくる、という生活をしていたので、週末はあまり勉強に集中できていなかったと思います。そのせいで、1学期の中間試験も、ブービーではないにせよ、割とひどい成績だった記憶があります。一方で、時々ある業者(進研ゼミ、旺文社、駿台など)の模擬試験では相対的に良い成績だったので、自分の精神的には「やればできる」とポジティブだった(逆に言うと油断していた)ように思います。ただ、クラスから時々全国1位が出たりするので、当初の闘争本能はどこへやら、トップを目指すなんてとんでもない、という引け目を感じ始めていました。

そんなふわふわした感じの1学期はあっという間に終わり、夏休みに突入しますが、しばらくは補習が続き、さらに9月中旬にある市高祭(前夜祭・文化祭・体育祭)の準備、泊りがけでお寺に合宿する恒例の理数科セミナーなどイベントが目白押しで、今から思うと、じっくり個人で勉強するペースがつかめないままに時間が過ぎていったと思います。そんな夏休みに、愛機 YAMAHA L-7Sの第2陣が訪れますが、それは次回の機会にお話しします。

今日も読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(7)高校編 その4

ギター購入

高校入学前からの初志貫徹で、新たにギターを購入しようと佐々木君に相談したところ、自分がMorrisを購入したGuitar House RaB(現:黒崎楽器)というショップに一緒に付き添ってくれました。高校入学祝いで祖父母にもらった10万円を握りしめて行ったのですが、予算は8万円上限と決めていました。今から思うと10万円上限と決めていれば良かったのですが、この真意が理解できる方はかなりのギターマニアでいらっしゃいます(笑)。

それほどのギターマニアではない、とおっしゃる方のために少しだけ解説致します。ギターの構造上、撥弦して表板(トップ)を振動させて作った音響を、ボディ内部で跳ね返してサウンドホールから発するために重要なのが裏板(バック)です。裏板と側板(サイド)に用いる材の中で、古今東西最も人気が高く、優れた評価も多いのがブラジリアン・ローズウッド(通称「ハカランダ」)です。

なお、現在、ブラジリアン・ローズウッドは、森林伐採等の影響で非常に希少となり、ワシントン条約(CITES)の規制で最も厳しい附属書I(原則として商用取引禁止)となっており、ストック材や古材を使用しない限り、新しく楽器や家具を作る事はほとんど不可能になっています。

1980年当時、定価10万円のYAMAHA L-10がモデルチェンジをされた頃かと思います。このL-10の前期型がハカランダを使用していて、後期型がより一般的なインディアン・ローズウッドに変わります。田舎でしたので、まだ「前期型」が在庫していた可能性があり、予算10万円であれば入手できたかも知れないと思う次第です。

しかし、そんな事を知る由もない当時の僕は、中学生の時にギター雑誌で見て憧れていた限定販売のYAMAHA XSシリーズという黒いギターを狙っていました。実は数日前にショップの下見をした時はXS-16(当時定価8万円)が飾られていて、(新品なので当然ですが)とても綺麗な状態だったので、それを本命と考えていました。ところが、当日訪れてみると、そのギターは試奏を繰り返された後のようで、中古品のようになっていて、一気に買う気が失せました。佐々木君も、木目調のギターの方が良いとのことで、これは却下となりました。

後日談ですが、数年前に佐々木君に再会した時、この時のことをよく覚えていて「最初にギターを買う時、黒いギターに反対して悪かった」と言ってくれました。まあ、自分でも積極的には選べなかったので、そもそも縁がなかったのだと思います。でも、この上位機種であるXS-56が中古市場に出てくると、今でも少し心がときめいたりします(笑)。

さて、店員さんに予算8万円であることを告げると、ショーウィンドウに飾られていたYAMAHA L-7Sを出してきて、今年発売のL-8S(定価8万円)と同じであるが定価7万円であること(これも後に事実でないことが判明しますが、まあ見た目はほとんど同じです)を説明されました。また、トップは綺麗でしたが、バックに大きな打痕キズがあるため、多少キズを修正して、1万円値引きしてくれるとのことでした。傷はすでに塗料を盛ってあったので、そこをヤスリで削っていっていましたが、それを見ていた佐々木君は顔をしかめて「これはやめた方が良い。別の新品のギターにすれば良いじゃないか。」と言ってくれたのですが、僕は心の中ではこのギターを買うことに決めていました。

その理由は、このギターYAMAHA L-7Sの外観です。

GibsonのHummingbirdを思わせる全貌(当時はGibsonなんて知りませんでしたが)、それに加えて、ピックガードにはなんとアゲハチョウが羽ばたいています。もう、これだけで自分のためのギターだと信じて疑わなかったですね。この記述がピンとこない方は、小学校~中学校編その1を読み返して下さいね(笑)。

このギターの初陣については次回にお話しします。今日も読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(6)高校編 その3

高校生活の始まり

下宿から高校までは距離にして約3km、ほぼ東へ一直線の道路でした。毎日自転車で通っていました。高校編その1で書いた通り、沖洲川を渡って海へ向かっていく道なので、時に海風が強くて難儀することがありました。通学路上には、徳島市民病院、各種飲食店(蕎麦屋、お好焼屋、モスバーガー他)、スーパー、ボウリング場などがあり、田舎者には何とも心が躍る道程でした。

入学式はあまり記憶にないのですが、入学生代表で宣誓をした入試成績トップの生徒(当然同クラス)に対して、いつか勝ってやる、という無謀な思いを抱いていた事だけ覚えています(まもなく、実力テストのブービー賞が判明して己のほどを理解することになります)。その後、クラスに分かれて担任の先生からの話、そして自己紹介という定番の流れになりました。自己紹介の内容として趣味や音楽の話も多く、印象的なのは、クラスには僕を含めて3名のギタリストがいて、3名全員さだまさしのファンだという事でした。

この後、高校生活を通じて一緒に音楽活動や詩作をしていく事になる佐々木雅浩君は、僕と同様に地方から出てきてアパートに下宿しており、真面目さと静かさと秘めた情熱を兼ね備えた男でした(今もそうです)。佐々木君の愛器はMorrisのW-60、当時定価6万円でした。休みの日などは、ギターを持って吉野川河川敷へ行ったり、互いの部屋を含めて色々な場所で練習した記憶があります。写真は「溜まり場」となっていた校誌「葦芽(あしかび)」編集室、左側で彼がギターを弾いて、右側で僕が歌っています。花が写っているので、3年後の卒業式の時らしく、時間が矛盾しますがここに載せておきます。

もう一人のS野君は当時クラスの大部分を占めていた徳島大学教育学部附属中学校の卒業生で、背も高く、スポーツ万能で、喧嘩も強そうな男でした。下の写真ですが、ご本人とは連絡が取れていないため、目線を入れて掲載します(もしご本人がこの記事を目にすることがあれば是非ご連絡下さい)。さだまさしのアルバム「印象派」の曲はほとんどコピーしていて、「距離」「聖野菜祭」「検察側の証人」など、よどみなく弾いていました。当時、オリジナル曲も既に多数作っていて、とても刺激を受けたのを覚えています。S野君の愛器はYAMAHAのL-8で、当時既に相当に弾き込んでいた印象です。

余談ですが、2024年12月に出したセカンドアルバム「ひとあるき」には、佐々木雅浩君の高校時代の詩を元にして作った楽曲が3曲入っています。4. 旅立ち、6. 歴史~不都合な真実~、9. 一歩(ひとあるき)です。「歴史~不都合な真実~」は90%以上彼の言葉が残っていて、CD化された曲の中では最も「歴史」の古い曲となります。

2025年12月22日発売「ひとあるき」 購入はMacky Guitars (https://mackyguitars.thebase.in/) へ

今回、ギターを買いに行った話をしたかったのですが、あまりに長くなってしまったので、ここで一旦終了と致します。読んでいただいて、ありがとうございました。

音楽ルーツの考察(5)高校編 その2

下宿生活

小学校~中学校編その1にて、中学受験に触れ「超虚弱体質だった自分には2時間近くかけて汽車(※)通学とか下宿するとかいう選択肢は皆無」だったと書きましたが、3年間で僕も強くなったのだと思います。さすがに汽車通学は難しかったので、賄い付きの下宿生活となりました。

(※原文は「電車」と書きましたが、徳島は未だに電化されていませんので正確には「汽車(ディーゼル機関車)」です)

大家さん宅の2階に住まわせてもらい、朝夕の食事とお弁当を作ってもらえる事になりました。当時の同居人は、大家さんのご家族5名と隣の大学生が1名、1階に単身赴任の会社員が1名、さらに併設されたアパートに住んでいた大学生が4名という大所帯でした。大家さんの息子さんや娘さん(当時小学生)、お父様、会社員の方や大学生のお兄さん達とも交流の機会があり、それはそれで楽しかった思い出がたくさんあります(そのうち、ご紹介する機会もあるでしょうか)。

お部屋は6畳一間でこのような感じです。自分が写っている下の写真は、背後に「余弦定理」が張ってあるので、多分高1の秋頃だと思います(理数科は授業が進むのだけは速かったのです)。当時から、平日1日5時間、土日は8時間の家庭学習をするよう指導されていた記憶があり、1年生の頃は相当頑張って寝不足でした(それでこの写真も人相が悪いのか?)。思い返すとまったく馬鹿げた事だったと思います(笑)。

入学前の春休みに実力テストがあり、自信過剰なのか気が抜けていたのか、今ひとつ勉強していなかった僕は、クラスでブービー賞を取ってしまい、最初から担任に目を付けられてしまいました。後から知った事ですが、クラスの大半は、既に中学校で高校1年生まで勉強し終えていたようです。ど田舎のお山の大将の認識はかなり甘かったと言わざるを得ません。

それでも、入学前からの初志貫徹で、4月早々にフォークギターを購入しに行くのですから、昔から強心臓でしたね。大都市(笑)のギターショップに行くのは初めてなので、さすがに一人では行けませんでしたが・・・。この話は長くなるので、次回に譲りたいと思います。

高校編のプロローグを引っ張ってしまいましたが、読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(4)高校編 その1

母校「徳島市立高校」の紹介

高校編を本格的に開始する前に、僕が心から愛する母校をご紹介したいと思います。高校編を書き始めるにあたり、高校関連の冊子を読み返したり、当時の写真を探したり、昔の作詞作曲資料に当たったりしましたが、本当に色々な経験をさせてもらった3年間で、間違いなく自分の人生で最も輝いていた季節だったと思います。

昭和37年(1962年)創立の比較的新しい学校で、よく「名前のない学校」と言われます。「徳島市立高校」というシンプルな名称の高校で、書類を書くとき「○○立△△高校」と記載しますが、我々は△△を空欄にせざるを得ない、という事実に基づく噂です。通称は「市高(いちこう)」です。

卒業生で有名人というと、真っ先に漫画家の柴門ふみさんが思い浮かびます。最近だと政治家の仁木博文さんも厚生労働副大臣として頑張っておられます。現時点では有名ミュージシャンはおられないと認識していますが、徳島出身のミュージシャンならば、米津元帥、アンジェラ・アキが間違いなく二大巨頭になりますね。

僕は22期生で昭和57年(1982年)入学、昭和60年(1985年)卒業です。当時、普通科の他に理数科が1クラス設置されていて、普通科はいわゆる総合選抜方式で採用されますが、理数科は全県唯一の学科でもあり、県下全域から成績優秀者が集っていました。スポーツも活発で、我々の学年と同じ年に赴任された逢坂利夫先生がサッカー部の監督になられ、3年目で全国高校サッカー選手権大会へ出場、平成4年(1992年)に全国高校総体で優勝された事は記憶に新しいです。

徳島市立高校 創立25周年記念誌 グラフ・年表 市高二十五年史 より

徳島市立高校を市街中心部側から撮影するとこのような風景になります。徳島市最東部の沖洲(おきのす)という土地(元は葦原だったらしい)に建てられた高校で、手前に見える沖洲川を渡って毎日自転車通学しました。水辺と海が好きな僕にとっては絶好のロケーションでした。

音楽的なことでは「校歌」、編曲者が偉大なる中田喜直先生というのが、当時からすごいことだと思っていました。

僕らの学年は普通科10クラス450名と理数科1クラス41名だったと記憶しています。中学校までは1学年3クラスだったので、特に通学時は人の多さに圧倒されていました。自転車通学が多いので、自転車置き場はとても大きく、なんと2階建てでした。

上段の写真は、授業風景と生徒総会です。生徒総会で様々な事を決定できる自由な校風を誇りとしていて、他校では問題になりそうな事も比較的緩かったと思います。服装を例にとると、女子の制服は黒のブレザー、靴下の色は白黒紺が許可、防寒用の白コートや黒タイツもOKという感じでした。ちなみに、生徒会活動もやっていたので、生徒総会の写真の壇上左から3番目は僕だと思います。

今日の最後に、さだまさしファンの読者の方々に喜んでいただけそうな写真を掲載します。

母校から市街中心部を眺めると「眉山(びざん)」が見えます。言うまでもない事ですが、さだまさしの楽曲、小説、映画に出てくるあの「眉山」です。当時も毎年のように徳島でコンサートをして下さっていたので、僕も時にお会いすることができました。

今日も読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(3)小学校~中学校編 その2

MEMBERのShota君がFacebookで「高校編が楽しみ」とコメントされたところですが、中学校編をもう少し引っ張ります。

既に話したように、小6の時にさだまさしと甲斐バンドでFolk & Rockの洗礼を浴びた訳ですが、中学校に入ると、長渕剛、チャゲ&飛鳥、雅夢、中島みゆき、などを同時に聴くようになり、楽譜を入手して部屋で弾き語りもやっていました。4本指のスリーフィンガーピッキングなど、ギターテクニックは完全に自己流ですが、それなりに弾いていたように思います(クオリティは???ですが)。

小学校の時から作文や詩は得意な方でした。中学校の国語教師だった祖父と父の遺伝子のおかげなのだと思います。中2になって初恋の相手と文通(昭和だな-!)できるようになり、さらに文章力が上がったような気がします。上述のミュージシャンの詞を手紙に引用したりすることも多かったのですが、まだオリジナルの作詞はできませんでした。「他人に聴いてもらうため」の初めての作曲は、恋愛とは関係なくて(笑)以下のような経緯でした。

中3の時に「クラスの歌を作り、全校音楽会で発表する」という企画が学校から与えられました。替え歌の想定でまず作詞を公募したのですが、採用された詞が非常に個性的だったため、僕が作曲することに、というよりは、勝手に作曲したような流れだったと思います。反対意見もありつつ、何となく採用されました。クラスには、例の作曲コンクールで毎年特選になる女の子もいたのですが、彼女がエレクトーンで編曲してくれ、本番では作曲者として指揮をさせてもらいました。

この歌は今でも思い出せるのですが、自分が歌うには不適切だと思うので、封印しています。もしかしたら、ライブの余興などで披露できるかも知れませんね。当時の音源や映像、残っていたらいいのになーと思う次第です。

それにしても、そろそろ高校受験だという3学期にこのような音楽会をやったり、その2-3ヶ月前には文化祭をやったり、田舎だけに本当にのんびりしていたと思います。クラブ活動の軟式テニス部は夏休みで終了していましたが、その後、陸上競技大会や駅伝の練習は続いていましたし、しょっちゅう手紙を書いていましたし、いつ勉強したのだろうと・・・ああ、ただその文通は中3の2学期にフラれて終焉になったのでした。

中3になると、あんな田舎でも模擬テストや地区内での学力を測定するための共通テストみたいなものが定期的に行われていました。僕の成績のピークは中学3年生の1学期で、その後、失恋でメンタルがやられて急降下しました。というよりは、今から思うとテスト本番でもやる気が出ず、全力を出してなかったのだと思うのですが。

また話が横道へ逸れました。そのようなメンタルの中、2学期の文化祭で初めてギター弾き語りをする事になりました。クラスの中でギターに興味のある友人が何人かいて、ギターを弾ける僕がリスペクトされ、教えを請われたという流れから、市民権を得たように思います。歌好きの友達を誘って、中島みゆきの「世情」を歌いました。ご存知の方も多いと思いますが、武田鉄矢さんが主演していたテレビドラマ「3年B組金八先生」で流れてブレークした曲です。校内暴力が問題化していた当時の世相を反映していますね。

そして3学期の音楽会では単独ステージへ、というほど格好の良いものではない事が写真からわかります。譜面台の代わりに逆さ椅子、リズムを足でとるとマイクはガタガタ、というトンデモない状況で、歌った曲は、さだまさしの「神話」。選曲が精神状態を示していると言わざるを得ませんが、伴奏は完全コピー(のつもり)でした。当然ながら、歌った後は会場が凍っていました(笑)。

以上が中学校までの音楽ルーツの解説になります。エピローグ的に、高校入試の話をしますと、失恋した相手を振り切るべく、鉄道で2時間近くかかる県庁所在地のハイレベル校を目指すことに決め、やっと勉強に打ち込むようになりました。入試当日、母は付き添ってくれましたが、教室内は知り合いがいないひとりぼっちの高校受験で、これまでの人生を振り返っても一二を争う大きな試練だったと思います。

では、医学部受験はどうだったんだ?と言われそうですが、僕が入ったクラスの半分以上が医学部へ進学する状況、といえば納得いただけるかと思います。

今日も読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(2)小学校~中学校編 その1

プライベートなお話にお付き合いいただき、ありがとうございます。今日もよろしくお願いします。

最近は、中学受験なるものが市民権を得ているようですが、昭和50年代の地元(徳島県)には、受験すべき中学校は私立1校しかなく、超虚弱体質だった自分には2時間近くかけて電車通学とか下宿するとかいう選択肢は皆無でしたので、持ち上がりで地元の中学校へ入学しました。9割方の生徒は同じ小学校からの持ち上がりでした。

入学前の冬休み(新年明けてから)、ほぼ突然に母が「ギターを買っても良い」と言ったので、父と町の楽器屋さんへ行き、YAMAHAのラインアップで一番高かったクラッシックギターを買ってもらいました。C-400だったか、4万円でした。実はその隣には5万円のアコギL-5があったのを覚えていて、あれを買っていれば音楽人生多少違ったかも・・・とか思ったりしますが、当時は子どもながらに、その1万円の差をとても気にしていました。

その時に、楽譜も必要、ということで、店の人に勧められるまま「風」の大久保一久さんの楽譜を買ったのを覚えています。結局、その後すぐに、さだまさしの楽譜を入手する事になりましたが・・・。一応、選んだのがクラッシックギターであることは認識していて、コードをジャカジャカ弾くよりは、今でいう「フィンガースタイル」に憧れていたのでしょう。あと、音楽コンプレックス(小学校編を参照)のために、どうせやるならクラッシック音楽をしっかり練習しよう、などと思っていたようです。

お小遣いをはたいて「芸音ギターアカデミー」という会社の通信教育(クラッシック)も申し込んだのですが、当然のごとく早期に挫折し、結局ギターも自己流で練習していく事になりました。その時に参考にしたのが、上述のさだまさしの楽譜と、兄が録音してくれたカセットテープでした。1979年は「関白宣言」が売れた年でしたが、例の年末のNHKホールコンサートでは「防人の詩」を初披露していました。シンプルな8ビートアルペジオ、歌は3番まで3分ほどの演奏でしたが、それが僕の心に深く刺さると同時に、ああ、ギター伴奏ってこうやって弾くんだ、という悟りを与えてくれました。

コードはEmが好きでした(笑)。だってアルペジオだと左手を使わなくて良いので。なので、一番最初に練習した曲は「惜春」。上記「防人の詩」もEmでコピーして歌っていました。家の中では恥ずかしいので、ストロークはほとんど練習しなかったです。そのくせ、アルペジオの1音1音はすごく力を入れて強い音を出すようにしていました。良いも悪いも、それが今の演奏スタイルに繋がっているかなと思います。構えは左大腿にギターを乗せるクラッシックスタイルを、高校生まで貫いていました。ちなみに、当時YAMAHAポータサウンドという小さなキーボードが家にあって、リズムに乗せて指1-2本でコードが弾けるので、「檸檬」や「無縁坂」を弾いていました(やはりマイナーコードが好き)。指使いは自己流なのですが、コードの響きを実感するには役立ちました。

さて、中学校へ入学して、女性の音楽の先生が担任になりました。最初の音楽の授業で、自己紹介がてら好きな歌を歌う、という事になり、学校教材の歌集にあった「精霊流し」を歌いました。当時はボーイソプラノの名残があり、キンキン声で歌った記憶があるのですが、そのうち、変声期の壁にぶち当たります。その担任の先生が腹式呼吸を教えてくれたのですが、マスターする前に(一学期だけで)結婚退職されてしまいました。その後、音楽で歌の指導を受ける事はなく、変声期が進むにつれ、さだまさしの音域を出すことすら辛くなっていきました。それでも顎を突き出したり、ファルセットに逃げてみたり、自分なりに発声を工夫していた記憶はあります。ボーカル教室の歌川先生曰く、そういう工夫は現在の歌に絶対に役立っている、のだそうです。

一方、相変わらず年一回の作曲コンクールに志願して出ていました。中学になると一カ所に集められて、課題の詞を与えられ、制限時間内に作曲する方式でした。当時は鍵盤で作曲していたのですが、他校の同級生がギターを持ち出したのをみて、負けずとギターを持ってきたのを覚えています。その時、ああ、ギターでも作曲できるんだ、と実感しました。当時、郡大会で特選が3名くらい選ばれ、県大会にはそのうちの1名が推薦として行けたようですが、僕は入選まででした。学年でピアノが一番上手な女の子が毎年特選で、やっぱり正式に音楽を習っていないことの劣等感で鬱々としていました。ちなみに6歳下だった妹は3歳からピアノを習い、同じ大会で県3位になり、自分の仮説を裏付けてくれました(笑)。

クラブ活動は運動音痴を解消しようと軟式テニス部に所属しましたが、一生懸命練習する割にはうまくならず、3年間補欠でした(下の学年にも抜かれたという事ですが、1つ下のチームは県大会で優勝したので、さもありなん、というところです)。一方、体力はついて長距離をまずまずの速度で走れるようになり、陸上部のない中学校で合同チームの選手に選ばれるようになりました。まったく音楽と無関係ですが、3年生の時にBチームとして郡の駅伝大会に出場し、当時他校の1年生だったK君(後のボクシングWBC世界スーパーフライ級チャンピオン)と同区間を走って、一応タイムは勝っていました(スポーツネタでは唯一の自慢です:笑)。写真を見ると、こんなヨレヨレでよく走ったなとは思いますね。その後も、高校大学を通じてほぼ毎日走っていたので、体力的には歌にも良い影響を与えたのかな、と思います。

スポーツ以外で、今の自分の音楽に良い影響を与えているものとして「科学体験発表」というイベントに思い当たります。夏休みの自由研究の発表ですが、これも上記の作曲コンクールと同じで、郡大会で1位になると県大会へ行けます。小学校6年生と中学校1年生で連続出場しました。写真は小学校6年生の時の「アゲハチョウの成長記録」ですが、ポスターが主流だった当時に、併せて最先端のスライドプレゼンをしていたのは自分でも驚きで、アイデアを出してくれた父親には感謝しています。小さい頃から、大衆の面前で発表する事には慣れている、というのは、音楽演奏の上でも大きなアドバンテージなのかな、と思っています。当然のことながら、本職の学会発表や学術講演なども同様です。

1979年 徳島市での科学体験発表会 左のスライドスクリーンに蝶の写真を映す 投影機を操作するのが父

完全に音楽から脱線してしまったので、今日はここまでと致します。読んで下さってありがとうございました。

音楽ルーツの考察(1)小学校編

ブログの最初の記事として、自分の音楽のルーツを書くべきだと考えました。おそらく長い話になりますが、お付き合い下さいませ。

まずは身体的要素から。アレルギー体質で、幼児期から鼻炎と喘息がひどかったのですが、咽喉頭を含む気道の形状や肺活量の増加という身体的要素に繋がっているように思います。肺活量は高校一年生の時に5,000ccあり、喘息発作で代償的に胸腔が大きくなったのでしょう。気道の形状は、自分で観察できないので何とも言えませんが、現在もかなりの高音(D音)が発声できるのは、それも関係しているかも知れないと、ボーカル教室の歌川和彦先生(サムガイズ・ミュージック https://someguysmusic.com/)に指摘されました。

一方、社会的要素です。幼児期は完全に虚弱体質であり、幼稚園や学校も年に何十日も休む状況で、ピアノなどが習える状況ではありませんでした。母が小学校の音楽教師(ただし教育学部卒)でしたが、本格的に教えてもらった事はなく、家にあった電子オルガンを自己流で弾いていただけです。義務教育以外で正式に音楽を習っていないのが、現在まで続く音楽分野の劣等感に繋がっています。

学校を休みがちなので、運動神経が発達する筈もなく、歌を歌う機会も少なく、小学校低学年の頃は鼻歌以上のパフォーマンスの記憶はありません(笑)。田舎のためテレビも民放1局のみで、音楽のインプットはNHKのど自慢とアニソン(特撮含む)限定でした。叔父がアニメや特撮のソノシート(レコード盤)を兄と僕に買ってきてくれて、主にはそれを聴いていました。

小学校3年生頃、やっと人並みに登校できるようになり、学校生活でも積極性が出てきた記憶があります。音楽関係では、年次の音楽会で打楽器(小太鼓)を好んで演奏しました。母の勧めで「作曲コンクール」なるものに応募し、8小節程度のものを授業の音楽知識の範囲で作っていました。母推薦で学校代表になり、何かの賞はいただいていたと記憶しています。一方、学校の授業で詩を作る事を学び、まずまず頑張っていたようです。「とび箱がとべた」という詩が地方の新聞に掲載された記憶があります(注:3年生まで全然とべませんでした)。

小学校4年生頃から、歌でしっかり発声するとボーイソプラノになる事を発見し、音楽の時間に目立ち始め、人前で歌わされる機会が増えました。小学校5年生頃から喘息発作が出なくなり、体力もついてきました(運動神経は相変わらずですが)。小学校6年生の時に、近所の婦人会の推薦で、町のチャリティーショー「ちびっ子のど自慢」に出演しました。写真はその時のものです。まだ歌謡曲を知らず、母の勧めのままにペギー葉山さんの「南国土佐を後にして」を歌いました。

写真からわかると思いますが、極度に顎を上げて歌う癖がありました。医師として推察するには、当時は極度の扁桃肥大があったため、気道を開くためにこの角度が必要だったのだと思います。また、この方が高音も出やすかったと記憶しています。一方、鼻炎は続いていて滑舌も悪く、100%胸式呼吸で肺活量任せに歌っていたと思います。これらの癖を直すのに数十年の歳月を要しました。

当時の周囲の音楽世界は、高校1年生だった兄が「甲斐バンド」を聴き始め、歌謡曲が音楽としてインプットされるようになりました。静かな音楽が好きな僕のために、兄は「さだまさし」の歌をカセットテープに録音してくれました。1979年末のNHKホールでのコンサートだったと記憶していますが、何十回も聴いて、さださん特有のMCを一言一句記憶していた事を覚えています。メンバー紹介の「ギター、坂元昭二!」という声まで覚えていますが、まさかその後自分が坂元昭二先生に師事し、CDを出すなんて夢にも思いませんでした(当然、当時はCDなんかなかったですしね:笑)。

この頃、やはり母の勧めで初めてギターを手にする事になるのですが、その話は中学校編に譲る事にします。

長文、読んでいただきまして、ありがとうございました。