音楽ルーツの考察(4)高校編 その1

母校「徳島市立高校」の紹介

高校編を本格的に開始する前に、僕が心から愛する母校をご紹介したいと思います。高校編を書き始めるにあたり、高校関連の冊子を読み返したり、当時の写真を探したり、昔の作詞作曲資料に当たったりしましたが、本当に色々な経験をさせてもらった3年間で、間違いなく自分の人生で最も輝いていた季節だったと思います。

昭和37年(1962年)創立の比較的新しい学校で、よく「名前のない学校」と言われます。「徳島市立高校」というシンプルな名称の高校で、書類を書くとき「○○立△△高校」と記載しますが、我々は△△を空欄にせざるを得ない、という事実に基づく噂です。通称は「市高(いちこう)」です。

卒業生で有名人というと、真っ先に漫画家の柴門ふみさんが思い浮かびます。最近だと政治家の仁木博文さんも厚生労働副大臣として頑張っておられます。現時点では有名ミュージシャンはおられないと認識していますが、徳島出身のミュージシャンならば、米津元帥、アンジェラ・アキが間違いなく二大巨頭になりますね。

僕は22期生で昭和57年(1982年)入学、昭和60年(1985年)卒業です。当時、普通科の他に理数科が1クラス設置されていて、普通科はいわゆる総合選抜方式で採用されますが、理数科は全県唯一の学科でもあり、県下全域から成績優秀者が集っていました。スポーツも活発で、我々の学年と同じ年に赴任された逢坂利夫先生がサッカー部の監督になられ、3年目で全国高校サッカー選手権大会へ出場、平成4年(1992年)に全国高校総体で優勝された事は記憶に新しいです。

徳島市立高校 創立25周年記念誌 グラフ・年表 市高二十五年史 より

徳島市立高校を市街中心部側から撮影するとこのような風景になります。徳島市最東部の沖洲(おきのす)という土地(元は葦原だったらしい)に建てられた高校で、手前に見える沖洲川を渡って毎日自転車通学しました。水辺と海が好きな僕にとっては絶好のロケーションでした。

音楽的なことでは「校歌」、編曲者が偉大なる中田喜直先生というのが、当時からすごいことだと思っていました。

僕らの学年は普通科10クラス450名と理数科1クラス41名だったと記憶しています。中学校までは1学年3クラスだったので、特に通学時は人の多さに圧倒されていました。自転車通学が多いので、自転車置き場はとても大きく、なんと2階建てでした。

上段の写真は、授業風景と生徒総会です。生徒総会で様々な事を決定できる自由な校風を誇りとしていて、他校では問題になりそうな事も比較的緩かったと思います。服装を例にとると、女子の制服は黒のブレザー、靴下の色は白黒紺が許可、防寒用の白コートや黒タイツもOKという感じでした。ちなみに、生徒会活動もやっていたので、生徒総会の写真の壇上左から3番目は僕だと思います。

今日の最後に、さだまさしファンの読者の方々に喜んでいただけそうな写真を掲載します。

母校から市街中心部を眺めると「眉山(びざん)」が見えます。言うまでもない事ですが、さだまさしの楽曲、小説、映画に出てくるあの「眉山」です。当時も毎年のように徳島でコンサートをして下さっていたので、僕も時にお会いすることができました。

今日も読んで下さってありがとうございました。

“音楽ルーツの考察(4)高校編 その1” への2件の返信

  1. 美しい眉山の写真、ありがとうございます。
    母校を誇りに思う!
    とても素晴らしいだと思います。
    母校を愛することも。

    市立高校で名前がないのはちょっと寂しいですね。
    わたしの小学は第四小学校といい、これも味気ないなーと思います。
    やっぱり名前、欲しいですよね。
    ^ ^

  2. ちゃみちゃん、本ブログ初のコメント、ありがとうございました。高校の名前も、もう60周年を超えるので、変わることはないですね。

    眉山は徳島市のどこからでも見えて、いつも見守ってもらっているような気持ちになります。さださんの「遍路」も徳島を歌って下さった歌ですね。ありがたいです。

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